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黒川通軌
日本陸軍の軍人 ウィキペディアから
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黒川 通軌(くろかわ みちのり、1843年2月12日(天保14年1月14日) - 1903年3月6日[1])は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。男爵。

経歴
伊予小松藩士・黒川定之丞の長男として生れる[2]。小松藩権少属を経て、明治政府に出仕し、兵部省糾問少佑、糾問大佑、糾問権正、糾問正を歴任し、1872年、陸軍省6等出仕・陸軍裁判所評事兼勤となる。陸軍裁判所長、軍馬局長などを歴任し、西南戦争では別働第4旅団長官代理として出征、さらに別働第2旅団参謀長を務めた。1878年11月、陸軍少将に昇進。
広島鎮台司令官、中部監軍部長心得などを歴任し、1885年5月、陸軍中将。名古屋鎮台司令官、第3師団長、第4師団長などを経て、1893年11月、東宮武官長兼東宮大夫に就任。1897年10月に休職した。1902年10月21日、予備役に編入[3]。
1887年(明治20年)5月24日、勲功により男爵に叙され華族となった[2][4]。1903年(明治36年)3月6日没、61歳。
栄典
家族・親族
- 妻は筆代(飯尾瞿堂三女、弘化4年9月22日- 明治41年4月)[2]。『平成新修旧華族家系大成』には以下の1男3女を載せる[2]。
- 長男・黒川幹太郎
- 娘・千春(入婿に朝鮮総督府検事、大邱覆審法院検事長黒川穣)[10]
- 娘・静江(西山彰の妻)
- 娘・ミエ(山口銀行理事朝長勘十郎の妻)[11]
嗣子の黒川幹太郎は貴族院議員を務めた。幹太郎の死後は養子の黒川秀雄(黒川通幸長男)が跡を継いだが、秀雄が1937年(昭和12年)に没したあと襲爵の手続きがなされなかった[2]。下落合にあった黒川家下屋敷は1940年に精神科医高良武久が買い、森田療法の病院「高良興生院」を開業した[12]。
脚注
参考文献
外部リンク
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