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黒河内信次
日本の陸軍軍人 ウィキペディアから
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黒河内 信次(くろこうち しんじ、1872年(明治5年3月) – 1923年(大正12年)2月12日)は、日本の陸軍軍人。基隆要塞司令官を務めた陸軍少将である。
生涯
旧会津藩藩士黒河内家の出身である[1][* 1]。鳥羽・伏見の戦いを林権助の砲兵隊に属して戦った[2]黒河内権之助の次男[3]として北海道磯谷郡[1]に生まれた。幼年学校を経て士官学校へ進み、5期を卒業。兵科は野戦砲兵で、少尉任官は1894年(明治27年)10月である。黒河内は射撃学校[4]で教育を受け、野戦砲兵第七連隊(弘前)[5]、野戦砲兵第八連隊(旭川)[6]などで勤務。野戦砲兵第七連隊中隊長[5]、野戦砲兵第八連隊大隊長、山砲兵第二大隊長、弘前陸軍兵器廠長[3]を歴任した。日清、日露両戦役に出征し、金鵄勲章を授与されている。
1912年(大正元年)9月中佐、1916年(大正5年)11月に大佐へ進級[7]。野戦砲兵第七連隊長在任中のシベリア出兵では、満州里で居留民保護にあたっている[8]。1920年(大正9年)8月に少将へ昇進。基隆要塞司令官として要塞整備などを行った。1922年(大正11年)に待命となり[1]、翌年死去。従四位勲三等功四級[9]、稚松会創立会員[10][* 2]。享年は52である[1]。
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脚注
参考文献
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