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一円銀貨
日本の硬貨 ウィキペディアから
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一円銀貨(いちえんぎんか)は、日本の近代銀貨である。「円銀」とも呼ばれる。




概要
1871年(明治4年)の新貨条例により、対外貿易専用銀貨として発行され、自由鋳造が定められた。1870年(明治3年)より1914年(大正3年)まで製造され、台湾・朝鮮・中国でも流通した。品位は銀.900、銅.100、量目はメキシコ銀貨(417グレイン)と金銀価格比を参考に26.96グラム(416グレイン)とした。発行当初の様式である旧一円銀貨と、1874年(明治7年)発行開始の新一円銀貨があり、新一円銀貨は更に量目は同じだが直径が異なる大型と小型に大別される[1]。大型は直径38.6mm小型は38.1mmである[1]。大型は1887年(明治20年)まで、小型は大型に代わり同1887年から1914年(大正3年)まで製造された[1]。
様式
旧一円銀貨
新一円銀貨
歴史
製造された当時は明治維新後まもなく、造幣技術が確立されていなかったため政府は英国に範を求めたが、持参した加納夏雄の原図の竜図が絶賛され、日本で製造されることになった。また1875年より1878年まで、アメリカの貿易銀に合わせて量目を420グレインに増量し表記を「貿易銀」に改めた銀貨も鋳造された。1879年以降は元の416グレイン、「一圓」表記に戻した。
事実上の銀本位制
当初は開港場での使用に制限されていたが、1878年(明治11年)からは日本国内でも一円銀貨の流通が認められ、金準備が不足し名目と化した金本位制下における事実上の本位貨幣となる(金銀複本位制、事実上の銀本位制)。1885年からは一円銀貨との兌換を明記した紙幣(日本銀行兌換銀券)が発行された。ただし、一円銀貨が日本国内の市場での支払いに用いられることは稀であり、これに相当する高額の支払いは大半が明治通宝や改造紙幣、日本銀行兌換銀券などといった紙幣によるものであった。
国内での通用停止と台湾・朝鮮での流通
1897年の貨幣法施行による金兌換再開にともない、一円銀貨の金貨との引換と日本での通用停止が決まった。しかし日清戦争以来、台湾や朝鮮では一円銀貨が盛んに流通していて、すぐに通用停止とすることができず、当分の間「丸銀」の極印を、旧一円銀貨では裏面の「桐-菊-桐」と並んだマークの左外側または右外側、新一円銀貨では「一圓」の文字の左側または右側に打って、外地のみ通用を認めた。いざ実施してみると、丸銀の極印のあるなしで、通用するしないといった市場の混乱が発生したため、1897年に発効した丸銀極印打ちは、翌1898年には取りやめになり、その年の4月1日に一円銀貨の日本内地での流通は禁止された。しかし日清戦争の結果1897年より日本領となった台湾では一円銀貨の流通が続き、外地および海外向けの一円銀貨(明治34年銘以降の一円銀貨は日本国内では通用しなかったので、「円形銀塊」とも呼ばれた)の製造は1914年まで行われた。
収集
この節には独自研究が含まれているおそれがあります。 |
一円銀貨は収集家の間で人気があり、価格は手変わりや状態、年号などにより、数千円から数十万円もの大差がある。近年では台湾や中国から日本に大量に逆輸入されている。また、今は廃貨となっていて有効な貨幣ではないために贋作の製造・流通自体は犯罪とならず収集家向けの贋作も存在している。但し贋作と知りながら本物として売ると詐欺罪にあたる。
近年では特別年号(特年、発行枚数の少ない年号)のみならず並年号(並年、発行枚数の多い年号)においても3Dプリンターで製作されたものなど精巧な贋作が多数出回っており、中国製のものも多く、中には本物とミクロン単位という顕微鏡レベルの違いしかないものもあり、特に注意が必要とされている。
年銘・手変わりの一覧
この表では、一円銀貨(貿易銀含む)の存在する年銘と、『日本貨幣カタログ』2026年版に掲載されている手変わりを示す。手変わりの欄の空欄は、同書に紹介されている手変わりによる分類が存在しない(1種類しかない)ことを示す。
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出典
関連項目
外部リンク
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