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1945年ベトナム飢饉

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1945年ベトナム飢饉(1945ねんベトナムききん)は、1944年10月から1945年5月にかけて、ベトナム北部で発生した大規模な飢饉。40万人から200万人が餓死したといわれている。

経緯

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天候不順による凶作に加え、米軍空襲による南北間輸送途絶や、フランス・インドシナ植民地政府及び日本軍による食糧徴発などが重なり、ベトナム北部を中心に多数の餓死者を出したとされる。新米が収穫される1945年6月に飢餓は収束した。

死者数については40万から200万の数字が上げられる。ホー・チ・ミンによる1945年9月2日ベトナム独立宣言には、「フランス人と日本人の二重の支配」のもとで「我々の同胞のうちの200万人が餓死した」との記述がある。日本軍の戦後の調査では犠牲者数は40万としている[1]

原因

飢饉の主因は明確にこれと特定されていない。様々な要因が複合的に関連したとされている。物資不足に悩む日本軍がフランス植民地時代から始まっていた強制栽培制度を利用し食用作物(米、芋、トウモロコシ)から綿やジュート等の繊維作物への転作強要を拡大していたこと、一大米作地帯であったトンキン湾デルタ地帯の1944年の収穫量が干ばつや収穫期の水害により激減したこと、日仏の強制買い付け、連合国軍の戦略爆撃によって米の一大産地である南部から北部への輸送が不可能になったことが主な原因として上げられる[2][3]。また1944年の冬は記録的な厳寒になったことも死者を増やす原因となった[1]

影響

軍需資源への転作を進める一方で、日本側はベトナムを日本本土で必要な米の重要な供給地の一つとみなしていた[4]。1943年までには年間百万トンの米を日本本土に輸出するまでになっていた[4]。これが1944年には50万トン、1945年には4万5千トンに激減している[4]。ただし、この原因は連合国軍による通商破壊戦の影響で海上輸送が困難になったためと考えられる[4]。とはいえ、飢饉に見舞われ、輸送船も相次いで撃沈される中で、なおも日本本土への米の輸出を続けていたことは注目に値する。

ホー・チ・ミン率いるヴェトミンはこの飢饉の原因は強制調達にあると民衆に訴えかけた。ヴェトミンがイニシアティブを握るきっかけとなった[1]

1945年8月15日の終戦時直後に日本軍が仏印処理により樹立させたベトナム帝国はヴェトミンにより打倒された。

関連文献

脚注

外部リンク

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