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1992年イタリアグランプリ
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1992年イタリアグランプリ (PIONEER GRAND PREMIO D'ITALIA[1]) は、1992年F1世界選手権の第13戦として、1992年9月13日にモンツァ・サーキットで開催された。
レース前
来期に関する噂が飛び交う中、イタリアGPにおいて2つの重大な発表が行われた。
グランプリ初日の金曜日(9月11日)、本田技研工業の東京本社にて川本信彦社長が会見を行い、1992年シーズンをもってF1活動を休止すると発表した。この決定については「1991年12月にマクラーレン側に意思を伝え、8月末の経営会議で正式決定した[2]」と説明した。
決勝の日曜日(9月13日)、レース開始4時間前の午前11時にナイジェル・マンセルが緊急記者会見を行い、今期限りでの引退を発表した。マンセルは来季の契約延長についてハンガリーGP前にフランク・ウィリアムズと合意していたが、セナが「契約金なしでもウィリアムズに乗りたい」と発言して以降、チームが契約金の引き下げを持ち出してきたと説明した(その金額は今期の年俸よりも低かった[3])。ウィリアムズのマネージャーが会見場を訪れ、「条件を呑むから会見をやめてくれないか」と記者達の眼前で説得したが、マンセルはこれに応じず声明文を読み上げた。
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予選
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予選結果
- DNQは予選落ち
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決勝
要約
視点
決勝展開
レースはポールポジションのマンセル、2位のセナ、3位のアレジの順で順当なスタートを切った。予選5位のベルガーは電気系トラブルでピットスタート。予選6位のシューマッハもスタート直後のシケインでブーツェンと接触し、ノーズ交換のため最後尾からの追走となった。
予選4位のパトレーゼはアレジとセナをかわし、14周目に2位に浮上。ウィリアムズの2台がワンツー体制を構築する。序盤からリタイアが相次ぎ、予選好調だったフェラーリ勢もマシントラブルにより姿を消した。
20周目、マンセルが大幅にペースダウンし、パトレーゼに先頭を譲った。マンセルはパトレーゼの母国での優勝をお膳立てするつもりだったが、42周目にマシントラブルが発生し、ピットに戻ってリタイアした。終盤の48周目、今度はパトレーゼのマシンにもアクティブサスペンションのトラブルが発生。リアの車高が落ち、路面にフロアを擦りながら走行を続けるも、5位まで順位を落とした。
ウィリアムズの自滅によりセナが今季3勝目を獲得し、表彰台の両脇にはベネトン勢が並んだ。6位のデ・チェザリスは今季3回目の入賞となった。
決勝結果
参考文献
- 『F1グランプリ特集10月号 (Vol.40)』 ソニーマガジンズ、1992年
脚注
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