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国鉄C51形蒸気機関車
鉄道省・日本国有鉄道の蒸気機関車 ウィキペディアから
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C51形蒸気機関車(C51がたじょうききかんしゃ)は、日本国有鉄道(国鉄)の前身である鉄道院(1920年、鉄道省に改組)が1919年(大正8年)に開発した、幹線旅客列車用の大型(のちには中型)テンダー式蒸気機関車である。
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誕生の経緯と性能・構造
要約
視点
島安次郎の指導のもと、9600形の設計を担当した朝倉希一が設計主任となって開発が行われた。
諸外国で高速機関車に好んで用いられる「パシフィック形軸配置」(2C1=先輪2軸、動輪3軸、従輪1軸)を国産設計の蒸気機関車としては初めて採用し、設計にあたってはアメリカ合衆国から輸入したアルコ社製8900形の装着したコール式1軸心向外側軸箱式従台車が参考にされ、このことから8900形に続くものとして18900形という形式名が与えられた。
本形式においては常用最高速度を100km/hとして計画され、設計当時のドイツの機械学会の推奨する動輪の常用最大回転数[注 1]から逆算で1,750mmという設計当時の狭軌用蒸気機関車では世界最大の動輪直径が導出された。この動輪サイズは以後国鉄の旅客用大型蒸気機関車の標準サイズとなり、太平洋戦争後のC62形に至るまで踏襲された。
このような大直径動輪を採用するとボイラーの中心高が引き上げられるが、8900形と同時期にドイツから輸入されたボルジッヒ社製8850形でボルジッヒ社の推奨に従いボイラー中心高を2,438mmとして問題なかったことと、これを参考として8850形を上回るボイラー中心高として設計された9600形が好成績を挙げていたことなどから、8850形をやや下回る2,400mmに抑えつつも高いボイラー中心高を許容している[注 2]。
ボイラーは通常の3缶胴構成で、缶胴部の内径と火床面積を8900形と同一としているが、伝熱面積の増大を図って煙管長が5,500mmと8900形に比して500mm延伸され、この値は以後の国鉄制式蒸気機関車の標準値となっている。
台枠は設計当時としては一般的な25mm厚の板材による板台枠である[注 3]。
動輪は前述のとおり1,750mm径のスポーク式で、28962号機までは17本のスポークを備えていたが、折損事故対策として28963号機(のちのC51 164)以降は18本に増強されている。
弁装置はワルシャート式で、ピストン棒を長くしてメインロッドを短縮する設計[注 4]の8900形とは異なり、ベルリーナ社製8800形に倣ってピストン棒を短縮しメインロッドをやや長くし[注 5]、第2動輪を主動輪としている。
テンダーは当初、上縁を直線で通した17m3形だったが、18940号機(のちのC51 41)以降は、石炭8t、水17tを積載可能な8-17形が標準形テンダーとなっている。なお、後期分ではC53形と同じく石炭搭載量を12tに拡大した12-17形テンダーのものも見られる。また、1930年の超特急「燕」運行開始時に専用牽引機に指定されたC51 171、208、247 - 249は東京 - 名古屋間ノンストップ運転実現のためにテンダーを水槽容量の大きいC52形の20m3後期形と振り替え、かつ水30tを積載可能な水槽車(「燕」運用時代はC51 247 - 249の番号が与えられていた。後のミキ20形)を増結する関係上、水槽車との間には給水管、テンダー上部には通風管や幌枠を設ける改造が実施されている[2][3]。いずれも鋼板組立式台枠、板ばねのボキー台車を装着する。
28901号機 (C51 102) 以降では空気ブレーキ装置の装備が始まった。歩み板を2段として歩み板と動輪の間にスペースを取り、第2動輪上の歩み板下に空気だめが取り付げられ、運転室床面から歩み板への距離も上に延長され高くなっている。

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製造
1919年から1928年の間に、鉄道院(省)浜松工場・汽車製造(大阪)・三菱造船所(神戸)において、合計289両が製造された。
最初の18両は国鉄各工場で部品を分担製造し、浜松工場で最終組立を行なうといった珍しい手法が採られた[注 8]。これは試作的なものだったらしく、性能試験などを行なった後、民間メーカーでの量産が開始された。量産形のうち大部分の249両は汽車会社が独占的に製造、他に三菱造船所が1926年から22両を製造している。
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