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Char

日本のミュージシャン、ギタリスト (1955-) ウィキペディアから

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Char(チャー、1955年〈昭和30年〉6月16日 - )は、日本ギタリストシンガーソングライター音楽プロデューサー

概要 出生名, 生誕 ...

サテライト・サービス放送番組審議会の委員でもある。本名:竹中 尚人(たけなか ひさと)[1]東京都品川区戸越出身。

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来歴

要約
視点

耳鼻咽喉科眼科の開業医を母に持つ[2]。7歳でピアノを習い始め、兄の影響から8歳でギターを手にする。本人曰く18歳までピアノを継続し、将来は音楽大学を志望していたとのこと。

ザ・ベンチャーズエリック・クラプトンジェフ・ベックジミ・ヘンドリックスなどから影響を受ける。日々ピアノよりもギターに没頭するのを心配した父親が、Charの部屋に入って「お前は将来何になりたいんだ」と問い詰めたところ、Charは「これ」と壁に貼ってあるジミ・ヘンドリックスのポスターを指差したというエピソードがある。

アマチュア時代

11歳から13歳の時期に、同級生の新川博らと結成したFOXで活動。ヤードバーズドアーズローリング・ストーンズなどをレパートリーとしていた。14歳でJAH(ヤッハ)結成。3ピースバンドで、メンバーの名前の頭文字から命名した。ヤードバーズ、クリームなどをレパートリーとし、バンド・コンテストにも出場した。この時期に早くもプロ・デビューの話を持ちかけられるが、「生ギターでフォークみたいのやらない?」という内容が自身の目指すものと異なっていたために断る。

16歳の時に『GAS MASK』結成。ヤマハ・ライトミュージックコンテストに出場し、オリジナル曲を演奏した結果、地区ブロックで2位を受賞する。オリジナル曲以外は、グランド・ファンク・レイルロードなどをレパートリーとしていた。

17歳でShock結成。別バンドであるBad Sceneのデビュー曲のレコーディングを依頼され、並行して同バンドにも参加。Shockでもプロ・デビューの話が出たが、レコーディング中にメンバーの音楽的指向性の食い違いから途中で解散する。

1973年、スモーキー・メディスン結成。

ShockやBad Sceneにて日比谷野外音楽堂でライブをしていた頃、金子マリも別のバンドで同じステージに立っていた。ある日、街中で出会い連絡先を交換した。

Bad Scene解散後、同バンドの鳴瀬喜博、Shockの佐藤準藤井章司と共に新たなバンドの構想を練る最中、金子マリから「バックコーラスでもいいから参加したい」との電話連絡を受けて迎え入れた。同年8月には合歓の郷で合宿を行い、本格的な活動準備に入る。

1974年に、スタジオ・ミュージシャンとしての初仕事をこなす。レコーディング内容は、ギター奏法教材「ロック完全マスター」(立東社)という譜面集と併売されるカセットテープのデモ演奏として、エリック・クラプトン等の曲を収めるものだった。当時のスタジオ・ミュージシャンはジャズ系スタイルのプレイヤーが多く、ロック系ギタリストは少数だったため、練習していたスタジオで知り合ったスタジオ・ミュージシャンからの依頼だった。この時のエピソードとして、当時のレコーディング・エンジニア達はロック・エレクトリック・ギター歪みフィードバック奏法を認識しておらず、戸惑ったと回想している[3]

Charが当時エレックレコード所属アーティストのレコーディングにも参加していたため、知り合いのディレクターから依頼を受け、バンドは企画アルバムのレコーディングを行った(『ゴーゴー大パーティー第4回ロック・インパルス』:キングレコード / 1974年リリース盤にマイティ・マウスの変名でクレジットされている)。同時期、エレックレコードの若手レコーディング・エンジニアから「どうしてもバンドの音を残したい」と依頼され、夜中にスタジオ入りして朝方までにデモテープを完成させた。後日、そのデモテープを金子、鳴瀬の2人が各音楽関係会社に持ち込む。当時、鳴瀬以外は高校生だったが、演奏力やステージングがプロミュージシャンや音楽メディアの間でも話題となり、内田裕也の耳にも入る。当時、Charが客としてチケットを購入して見に行く予定だったとも言われている内田プロデュースのイベント第2回「フラッシュ・コンサート」(於:西武劇場)に出演予定だったサディスティック・ミカ・バンドが海外公演を行うために出演キャンセルした際、内田はその空席に『スモーキー・メディスン』を抜擢した。1974年5月号のニュー・ミュージック・マガジン誌では、アマチュア・バンドにもかかわらず「期待の新グループ、スモーキー・メディスン」として数ページに渡り写真と内田裕也のコメントを掲載。その演奏力、新鮮さ共に好評価されていた。

以降は様々なロックイベントに出演。当時日本最大のロックフェスティバルと呼ばれた郡山ワンステップフェスティバル1974にも出演が決まっていたが、その直前にスモーキー・メディスンは解散した。解散の理由は音楽的指向性の相違と言われているが諸説ある。

解散後のCharはフォーク系グループのレコーディングやライブでのバックバンド・ギタリスト、楽器メーカー主催のギター・クリニックなどの活動が主となるが、Mad BrothersやCharlie Funk Party(パーティ・バンド)でも活動した。

プロデビュー後

1976年6月、キャニオン・レコード / SEE SAWからシングル『NAVY BLUE』でソロ・デビュー。9月にアルバム『Char』を発表(代表曲となる「Smoky」を収録)。1977年6月リリース「気絶するほど悩ましい」は、外部の作詞(阿久悠)、作曲(梅垣達志)で自身のロック指向とは異なる「歌謡ロック」路線となりアイドル系ギタリスト&ボーカリストとして人気を博す。1978年には「逆光線」、「闘牛士」とヒットを飛ばし、同時期に登場した世良公則&ツイスト原田真二と共にロック御三家と呼ばれた[4]

他の二組が自作曲で世に出たのとは違い、自身のシングル曲が職業作家からの提供曲だったことについては「俺がやったのは歌謡曲とロックの中間だったよね。俺はロックの音楽家だけど、シングル盤は歌謡曲でいいと思ったわけさ。ロックやっててメジャーの世界に出るにはそれしかなかったよね」と当時のインタビューで述べている[4]。アイドル性を狙うもバンドにルックスの悪いメンバーがいたために若い女性ファンは取り込めなかったという[4]

また、曲のヒットでテレビの歌番組に出演することが増え、そこで当時一世を風靡していたピンク・レディーの想像を絶する忙しさを知り、五木ひろし新沼謙治といった演歌歌手と共演することで歌謡界の本物のプロの凄さを目の当たりにし、自分の道を極めなければいけないと思ったと述懐している。

1978年7月に発表された自身3枚目のアルバム『Thrill』にて、楽曲の半分でゴダイゴと共演。リリース後に行われたゴダイゴとの共演LIVEで、男性のみが入場可能だった『男だけのコンサート』を行う。

同年9月、音楽活動以外に俳優にも挑戦。TBSの時代劇特番『雲を翔びこせ(渋沢栄一伝)』にて主人公の渋沢栄一西田敏行)の嫁、千代(池上季実子)の兄、長七郎役を演じる。

同時期、本人の本来の指向とは異なるアイドル然とした歌謡界での活動に見切りを付け、新たに本格的なロックバンド結成を構想。

イエロー~金子マリ&バックスバニーのジョニー吉長ザ・ゴールデン・カップス~スピード・グルー&シンキ等のルイズルイス加部と共にJOHNNY, LOUIS & CHARを結成。活動準備のため合歓の郷で合宿。

並行して続けていたソロ活動においては、1978年秋発売の「BLUE CHRISTMAS」が東宝映画『ブルークリスマス』劇中歌となったが、6thシングルとしての日本語歌詞バージョンとは別にChar自身が歌う英語歌詞バージョン(こちらはBGM数曲を併せたサウンドトラックとして構成)も同時発売される異色の体制となった。作曲は同映画の音楽監督である佐藤勝。映画の中では英国人バンドが歌う曲として扱われている。

その後JOHNNY, LOUIS & CHARのステージ・デビュー(芸術祭イベント)の模様はTV収録されたが、その放映前に自身に対して「ある事件(覚醒剤取締法違反)」の謂れのない嫌疑がかけられたため活動休止を余儀なくされ、オンエアされることなく御蔵入りとなる。同時期に予定されていたコンサートツアー『JOHNNY, LOUIS & CHAR・ウルトラコンサート』も中止となる。

1979年、カルメン・マキの支援を受け、彼女のツアーメンバーとして復帰。

同年にJOHNNY, LOUIS & CHARが再始動。7月14日に開催された『Free Spirit』と題されたフリー(無料)コンサートには雨天にもかかわらず全国からファンが殺到し、日比谷野外音楽堂の動員記録を樹立する(当日の模様は同年11月、3万枚限定盤LPとして『Free Spirit』のタイトルでリリースされた)。

1980年5月『Trycycle』、1981年『OiRA』を発表。

所属レコード会社の移籍に伴いバンド名をピンククラウドと改名。バップから、1981年5月『KUTKLOUD』、9月『CLOUD LAND/桃源郷』、1983年11月『PINK CLOUD』、1984年11月『PLANT BLEND』を発表。レコード会社との契約に「バンドとしてのアルバム4枚、各メンバーのソロ・アルバムを出す」と言う条件があり、この時期は精力的な活動期間でもあった。この間には東京・銀座にSmoky Studioを設立。ジョニー吉長のソロ・アルバム『LOVE CHILD』がこけら落としとなり、Charのプロデュースによる他アーティストのアルバムも数多生まれた。

1985年、2度目のレコード会社移籍。東芝EMIに所属し、7月に日比谷野外音楽堂で、観客を入れず収録したミニ・アルバムを発表。この頃、単身で渡英して半年間を過ごす。バンド活動は年間で数回程度となる。

1986年3月、忌野清志郎とアニメ県立地球防衛軍のサウンドトラックとして忌野清志郎、JOHNNY, LOUIS & CHAR名義で『S.F.』を発表。同年は『忌野清志郎、JOHNNY, LOUIS & CHAR』でのLIVEを学園祭や野外イベントで行った。

一度目のレーベル立ち上げ

1988年 - 1997年、電話通販専門のインディーズレーベル「江戸屋Record」を運営。1988年6月、ソロ・アルバム『PSYCHE』を発表。6月7日にはJOHNNY, LOUIS & CHAR名義で汐留PITにて久しぶりのLIVEを行う。会場では『PSYCHE』が先行発売され、9月にはLIVEの模様を収録した『1988,6,7 JOHNNY, LOUIS & CHAR』のタイトルでビデオも発表。以後ピンククラウドとしての活動と並行して新たなユニットでの活動も始める。

1991年には、イベントがきっかけで組まれた石田長生とのアコースティック・デュオBAHO(馬呆)名義で『TREMENDOUS』を発表。以降も不定期ではあるが活動を続けた。

1992年4月、『PSYCHEDELIX』を発表。これは『PSYCHE』発売時の1988年、ソロ・ライブを行う際に佐藤準アン・ルイスジム・コープリージャズ・ロッホリーと組んだChar & THE PSYCHEDELIXが元となったバンド『PSYCHEDELIX』が制作した1枚目のフル・アルバムである。このバンドではフル・アルバムを3枚発表することになる。

1994年、PINK CLOUD解散。

1995年、PSYCHEDELIXの3枚目のフル・アルバム『Stand』の製作途中に、ベースのジャズ・ロッホリーが方向性の違い等から脱退。PSYCHEDELIXはCharとジムのユニットとなり、ベースは途中からCharが演奏している。

1996年、PSYCHEDELIXとしてミニ・アルバム『Smoky』を発表。

1998年、Char自身もレコード会社をポリドール・レコードに移籍。2007年まで在籍しアルバム9作品(内、ベスト盤2枚、REMIX盤1枚も含む)をリリースした。

1999年、 C,B&A(チャー・ボガートアピス)で国内ツアーを敢行。

2002年、インスト・アルバム『Sacred Hills ~聖なる丘~』をロンドンにてレコーディング、その際ジェフ・ベックの自宅スタジオにてセッションを行う。

2005年、プライベートスタジオでのアナログ・ワンマン・レコーディング・アルバム『天邪鬼Amano-Jack』リリース。

2006年、 布袋寅泰と“HOTEI vs Char”名義でコラボレーション・シングル『Stereocaster』を発表。

二度目のレーベル立ち上げ

2010年、ネット販売専門の新レーベルZiccaを立ち上げ、自身のルーツをアレンジし収録したTRADROCKシリーズとして『Eric』『Jeff』『The B』『The V』『Jimmy』『Jimi』『Char By Char』を発表した。

それまで行ったりライブをしたことの無い地方都市会場を主に不定期ではあるが『TRADROCK By Char』ツアーで各所を廻っている。また、現在イベントのみで活動するユニットで奥田民生山崎まさよしとの3人の侍(Samurai‐3)がある。

2011年のRSRでは斉藤和義も加わり、4人の侍として登場した。

2015年、還暦アニバーサリー アルバム『ROCK 十』(ロックプラス)リリース。干支に因んだ12名のアーティストに作詞作曲、提供を依頼した。

2018年、Fender Custom Shopより、日本人初のプロファイルドシグネイチャーモデルとして「Char Signature Stratocastar CHAR 1959 STRATOCASTER® BURGUNDY」を発売。「MASTERBUILT」と「CUSTOM BUILT」の2モデルを展開し、「MASTERBUILT」はフェンダー最上級の職人の一人であるマスタービルダー、ポール・ウォーラーによって限定20本作製。

2020年、FENDER × ZICCA「CHAR 2020 MUSTANG - Zicca Limited Model -」をZICCA AX 限定発売。

2021年、初期3作に連なる4枚目のアルバム『Fret To Fret』をリリース。

2022年5月には桑田佳祐からのオファーを受け「時代遅れのRock'n'Roll Band」のレコーディングに佐野元春世良公則野口五郎と共に参加した[5]。同年12月31日には同曲で『第73回NHK紅白歌合戦』に出場した[6]。同年、1976年デビュー・アルバム期のライヴ音源『CHAR LIVE 1976』をリリース。

2023年、全てを“独り”で手がけたインスト・アルバム『SOLILOQUY』リリース。同年、Johnny, Louis&CharPINK CLOUDのトリビュート・アルバム『Afterword』をリリース。

2024年、澤田浩史(b)、柴田俊文(key)、タリー・ライアン(d)という編成でのライブ・アルバム『LIVEVIL』をリリース。

2025年2月、有明アリーナにて開催されたジェフ・ベックのトリビュート・ライブ『A Tribute to Jeff Beck by Char with HOTEI and Tak Matsumoto featuring The Jeff Beck Band』に出演。布袋寅泰松本孝弘ジミー・ホールロンダ・スミスアニカ・ニルズゲイリー・ハズバンドらと共演[7]

同年7月4日、東京・日本武道館で70歳(古希)の誕生日を祝うスペシャルライブ「Char Nippon Budokan Live 2025 - Purple Phase Jam」を開催。Charを慕う総勢30人を超えるゲストミュージシャンとのセッションを披露した[8][注 1]

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人物

  • デビュー35周年を迎えた2011年、米国フェンダー社とエンドースメント契約をし、Char Signature Stratocaster® "Charizma"が製作される運びになった[9]
  • 2015年6月2日『徹子の部屋』(テレビ朝日系)に初出演。司会の黒柳徹子とはそれ以前に『ザ・ベストテン』(TBS系)でも共演経験がある(1978年5月4日放送にて「闘牛士」でスポットライトに出演した)。『徹子の部屋』でのトークにて、親交のある松任谷由実最終回の出演を希望していることを語った[10]

ディスコグラフィー

シングル

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配信限定シングル

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コラボレーション・シングル

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アルバム

オリジナル・アルバム

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ミニ・アルバム

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ベスト・アルバム

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ライブ・アルバム

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トリビュート・アルバム

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リミックス・アルバム

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カバー・アルバム

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CD BOX

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映像作品

  1. 20th Anniversary〜Electric guitar Concert〜(1999年12月23日)
  2. THE CLIPS(2000年9月20日)
  3. LIVE IN NIPPON BUDOKAN 2001〜BAMBOO JOINTS〜(2002年2月21日)
  4. No Generation Gap(2004年7月7日)
  5. 彩気 Psyche(2005年10月26日)
  6. Amano-Jack Movin’ The documentary on studio work & Live tour of Char(2006年12月13日)
  7. ROCK+EVE LIVE AT NIPPON BUDOKAN(2015年11月27日)
  8. ROCK FREE CONCERT(2015年12月7日)

タイアップ曲

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参加作品

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出演

テレビ

テレビドラマ

ラジオ

CM

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脚注

参考文献

外部リンク

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