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ジェイ・ミラー

アメリカ合衆国の音楽プロデューサー、スタジオ経営者(1922-1996) ウィキペディアから

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ジェイ・ミラー(本名:ジョセフ・デントン・ミラー、J.D.ミラーとの表記もあり)は、アメリカ合衆国ルイジアナ州音楽プロデューサーソングライターである。彼の手掛けたケイジャンスワンプ・ブルーススワンプ・ポップなどのレコーディングはアメリカのポピュラー音楽文化に多大な影響を与えた。

概要 ジェイ・ミラー, 出生名 ...
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来歴

要約
視点

ミラーは1922年5月5日、ルイジアナ州アイオータに生まれ[1]、幼少期の多くをテキサス州エル・カンポで過ごした[2]。彼はその後ルイジアナ州クロウリーに移住し、1930年代後半に彼は、フォー・エイセズ、ザ・ライス・シティ・ランブラーズ、ザ・デイライト・クリーパーズなどいくつかのケイジャン・バンドでギターを担当した。彼はその後人生の大半をクロウリーで過ごしている。

1946年[3]、彼はニューオーリンズ音楽プロデューサーコズィモ・マタッサのスタジオを利用して、ケイジャンのミュージシャンたちのレコーディングに乗り出した[4][5]

彼のレーベル、フェイ・ドー・ドー・レコード(Fais Do Do Records)の特筆すべき仕事としては、立ち上げたばかりだった1946年のハッピー・ドック・アンド・ザ・ボーイズ(ハッピー・ファッツとオラン・"ドック"・ギドリー)のレコーディングがある[6]。いくつかのレコードをリリースした後、彼はレーベル名をフィーチャー・レコード(Feature Records)に変更し、アメディ・ブロウ、アルダス・ロジャー、オースティン・ピートなどのケイジャンのミュージシャンを始め、その他諸々のカントリーのミュージシャンをレコーディングした。

後になってミラーは、異なる音楽のジャンルのためにロッコ(Rocko、当初の名称はロケット)、ジン(Zynn)、ショータイム(Showtime)、レブ・レベル(Reb Rebel)、ケイジャン(Kajun)、ケイジャン・クラシックス(Cajun Classics)、ブルース・アンリミテッド(Blues Unlimited)、スウェード(Swade)[7]、スポット(Spot)、アクション(Action)、ケイ(Kay)、リンゴ(Ringo)、トリビュート(Tribute)、フレンチ・ヒッツ(French “Hits”) [3]といった零細レーベルを複数立ち上げている。

1950年代に彼はキング・カール、ギター・ゲイブル、ウォーレン・ストームロッド・バーナードジョニー・アランといったスワンプ・ポップのアーティストたちのレコーディングをするようになった[2][8]

1952年、ミラーは「It Wasn't God Who Made Honky Tonk Angels」(当時ハンク・トンプソンがヒットさせた「The Wild Side of Life」のアンサー・ソング)の歌詞を書いた[9]。この曲はキティ・ウェルズによってレコーディングされ、何週間かに渡ってチャートの1位となり、ゴールド・ディスクを獲得した[10]

この頃、彼はまたライトニン・スリムレイジー・レスターロンサム・サンダウンスリム・ハーポといったスワンプ・ブルースのアーティストのレコーディングもするようになった。ミラーはハーポの「I’m A King Bee」および「Rainin’ In My Heart」のプロデューサーを務めた。これらの曲は重要なスワンプ・ブルースのレコーディングとして知られるようになり、前者はローリング・ストーンズが、後者はニール・ヤングがカバーした。1962年から1965年の間に、ミラーはサイラス・ホーガンの楽曲のレコーディングも行なっているが、エクセロ・レコードのオーナーが変わり、新しいオーナーと揉めたことにより、同レーベルとのかかわりが途絶えている[11]

ミラーのレコーディング・スタジオ(クロウリーのマスター・トラック・スタジオ)では、複数のメインストリームのレコーディング・アーティストたちがレコーディングを行なっている。ポール・サイモンは高く評価されたアルバム『グレイスランド』に収録されたトラック「That Was Your Mother」をこのスタジオでレコーディングし、ジョン・フォガティザディコ・ミュージシャンのロッキン・シドニーの「My Too Toot」のカバー・バージョンをレコーディングするためにこのスタジオを訪れている。

ミラーは自らを人種隔離主義者であると公言していたものの、黒人と白人のミュージシャンたちがステージや公共の場で一緒にいることが禁止されていたジム・クロウ法時代の南部において、彼は異なる人種が混じったスタジオ・バンドを使っていた。彼はアフリカ系アメリカ人のブルースが他のどの音楽ジャンルよりも好みであると公言しており、彼はジェリー・ウェストという別名を使用してブルースの楽曲を書いてもいた。別名を使ったのは、自分が白人であることを隠すためであった。

その反面、1960年代に彼はいくつかの人種差別的なレコーディングのプロデュースも行なっており、自身のレブ・レベル・レーベルからリリースしている。中でもジョニー・レベル(ケイジャン/カントリー・ミュージシャンのクリフォード・"ピー・ウィー"・トラハンの別名)のレコーディングが知られている。

ミラーは1996年3月23日、四重冠動脈バイパス手術後の合併症により、クロウリーで死去した[1][9]。ルイジアナ・ブルースの殿堂は、彼の名にちなんだジェイ・D・ミラー賞を創設している[9]

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レコーディングされた楽曲

以下はミラーが書いた楽曲で、他のアーティストによってカバーされたものの一部である:

  • I Made A Big Mistake」 – アイリー・ルジューンがカバー
  • Diggy Liggy Lo」 – ダグ・カーショウを始め多くのアーティストがカバー[12]
  • I Hear You Knocking」 – ドワイト・ヨアカム、ファビュラス・サンダーバーズがカバー
  • I'm A Lover Not A Fighter」 – キンクスがカバー[13]

コンピレーション・アルバム

  • 2011年 『Acadian All Star Special: The Pioneering Cajun Recordings of J.D. Miller』 (Bear Family Records BCD 17206-1/2/3 CK)[5]

注釈

外部リンク

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