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ザ・クラッシュ

イングランドのロックバンド ウィキペディアから

ザ・クラッシュ
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ザ・クラッシュThe Clash)は、1976年から1985年にかけて活動した、イングランド出身のパンク・ロックバンドである。

概要 ザ・クラッシュ, 基本情報 ...
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概要

セックス・ピストルズダムドと並ぶ著名なパンク・バンドだった。また、アメリカでも成功したパンクバンドの一つである。1stアルバムは典型的なパンクとレゲエのパンク・バンドだったが、3rdアルバム『ロンドン・コーリング』では新しいサウンドを確立、パンク・シーンに影響を与えた。また、ステージ上での激しいパフォーマンスも評判となった。1980年ごろから徐々にダブラテン音楽スカカリプソといった第三世界の音楽要素を取り入れるようになった。

「ローリング・ストーン誌の選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第28位。

来歴

要約
視点

1975年ミック・ジョーンズは“LONDON SS”というバンドで活動し、マネージャーはのちにクラッシュのマネージャーになるバーニー・ローズであった。LONDON SSのボーカリストのオーディションにポール・シムノンが参加し、ジョーンズと知り合う。一方、ジョー・ストラマーパブロック・バンド“101'ers”のボーカリストとして活動していた。

1976年、LONDON SSは解散。バーニー・ローズは引き続きジョーンズのマネージャーを務め、新たにバンドを結成すべくジョーンズと画策する。同年2月にセックス・ピストルズを見て衝撃を受けたジョーンズは、セックス・ピストルズと同じ方向性を目指すことを決意。ギターを全く弾けなかったシムノンに声をかけ、ギターよりも簡単なベースの担当とし、ボーカリストを本格的に探し始める。ほどなくして“101'ers”の演奏を見てストラマーを気に入った3人は、終演後にストラマーを呼び出し、“101'ers”を辞めて自分たちのバンドに参加しないかと打診。48時間以内に返事をするよう言い残して立ち去るも、最初の24時間でストラマーが参加することを決断し、クラッシュが誕生することとなる。同年7月4日、セックス・ピストルズと共にシェフィールドのホワイト・スワンで初ライブを行う。1977年1月25日CBSレコードと契約する。尚、契約当時には既にギターのキース・レヴィンは解雇、ドラムのテリー・チャイムズは次のドラマーが決まれば脱退する約束をしており、契約後に正式メンバーとしてドラムのトッパー・ヒードンが加入する。 初期は金銭面でのやりくりに苦労したという[注 1]

イギリスでは、1stアルバム『白い暴動』を発表し、高い人気を獲得した。その後、クラッシュは音楽性の幅を広げ、他のパンクバンドとは一線を画した作品をリリースすることになる。3rdアルバムで2枚組の『ロンドン・コーリング』ではアメリカでも知られるようになり、今までパンクをこき下ろしてきたイギリスの音楽批評誌にも評価されることとなる。

4thアルバムは3枚組『サンディニスタ!』を発表。本国だけではなくアメリカでも注目された。しかし1982年、アルバム『コンバット・ロック』発売前に、バーニー・ローズの発案で、話題づくりのためストラマーが失踪。このことがきっかけとなりメンバー間に不協和が生まれ、『コンバット・ロック』発売直後にトッパー・ヒードンがヘロイン中毒により解雇され、1983年3月28日カリフォルニア州サンバーナーディーノで開催されたUSフェスティバルを最後にジョーンズがグループをクビになってしまう。ストラマーとシムノンは新メンバー3人を迎えた新体制で再出発を図るが、発表したアルバム『カット・ザ・クラップ』は不評で1985年11月23日バンドは解散を発表した[9]

2002年11月に、ロックの殿堂入りが発表された。新たに殿堂入りしたミュージシャンは授賞式で数曲演奏するのが慣例であり、クラッシュもストラマー、ジョーンズ、シムノン、ヒードンの4人で再結成することが検討されたが、シムノンが「チケットが2,500ドルもするような、普通のファンが来られない場所で再結成するのは嫌だ」と拒否。

シムノンには代理を立てる方向で[注 2]調整が進められていたがその矢先にストラマーが、2002年12月22日に、サマセット州ブルームフィールドの自宅で心臓発作により死去[10]。結局、再結成は実現しなかったが、残されたメンバーは「再結成しなくて良かった」と後に語っている[11]

翌年3月の授賞式には、ジョーンズとシムノン、テリー・チャイムズが出席した[12]。プレゼンターは、U2ジ・エッジ

政治的スタンス

クラッシュは後期から音楽性の幅を広げたが、同時に政治思想を明確にしたバンドだった。ストラマーとジョーンズによって書かれた歌詞は、左翼的政治主張を打ち出したもので、彼らの楽曲は社会腐敗、失業問題人種差別警察の横暴、政治的・社会的抑圧や、サッチャー新自由主義に対して強烈な批判を加えた。また、彼は「アンチ・ナチ・リーグ」や「ロック・アゲインスト・レイシズム」といった活動へも積極的に参加しパンク・ロックを越えた社会運動を生み出していった。約10万人が参加したロック・アゲインスト・レイシズム運動のデモ行進と音楽フェスティバルに、トム・ロビンソンシャム69や、レゲエ・アーティストのスティール・パルスデニス・ボーヴェルらと出演した[13]

ロンドンでは、英連邦に所属した国々出身のマイノリティが貧困の中に生活していた。ジャマイカからの移民はマイノリティの一つとして、ロンドン市内にコミュニティを形成した。不況、失業、社会の不平等を、音楽を通じて表現していたクラッシュは、日曜ごとに集まるカリブ系移民のコミュニティに連帯し、しばしば活動を共にした。この活動が、他のパンクバンドと同様、レゲエに傾倒していくきっかけになった。労働組合活動、市民運動、若者の政治運動と共に、民族的マイノリティの活動は警察権力からの弾圧を受けることがあり、クラッシュも弾圧の現場に弱者の味方として立ち合い、このことが国家との対決姿勢を明確にさせた。

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メンバー

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ジョー・ストラマー(Vo/G) 1980年
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ミック・ジョーンズ(G/Vo) 1980年
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ポール・シムノン(B) 1980年
さらに見る 1976年 (6月~9/5), 1976年 (9/6~11月) ...

影響

他のミュージシャンへの影響も非常に大きく、ジェネレーションXを始めとする同時代のパンク・ロックバンドのみならず、U2ニルヴァーナレイジ・アゲインスト・ザ・マシーンレッド・ホット・チリ・ペッパーズグリーン・デイといったミュージシャンにも影響を与えている。また、ヒップホップミュージシャンのパブリック・エナミーも、大きな影響を受けたミュージシャンにクラッシュの名前を挙げている。更に、1980年代・90年代ガレージロックブームにも彼らの影響がある。

ディスコグラフィ

スタジオ・アルバム

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ライブ、コンピレーション・アルバム

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EP

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シングル

UKシングル

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USシングル

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フィルモグラフィ

日本公演

  • 1982年
  • 1月24日 東京 渋谷公会堂
  • 1月25日 大阪 フェスティバルホール
  • 1月27日 東京 中野サンプラザ
  • 1月28日 東京 中野サンプラザ
  • 1月29日 東京 中野サンプラザ
  • 1月30日 東京 新宿厚生年金会館(昼)
  • 1月30日 東京 新宿厚生年金会館(夜)
  • 2月 1日 東京 中野サンプラザ
  • 2月 2日 大阪 フェスティバルホール

関連項目

脚注

外部リンク

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