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倉岡克行
日本の実業家 ウィキペディアから
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倉岡 克行(くらおか かつゆき、1909年(明治42年)7月21日 - 1978年(昭和53年)7月2日)は、日本の実業家。亜細亜大学教養学部教授[1]。満州国協和会開原弁事処主事[2]。開原電気・開原市場株式会社取締役[3]。上郡山倉岡合名会社開原屠殺場無限社員[4]。盛京時報開原支局長[3]。父親は在満活動家・実業家の倉岡岩[4][5][6]。弟・利行は国際信託取締役・龍岡栄吉の養子[7][8]。息子は俳優の岡崎二朗[9]。孫は元俳優、神真都Q会理事の倉岡宏行[10]。
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経歴
鹿児島県士族・倉岡岩の長男として鹿児島県に生まれる。1928年(昭和3年)に家督を相続。1932年(昭和7年)東京外国語学校支那語科・貿易科卒業後、同年満州国執政府諮議室科に奉職[11]。翌年、同内務処技士に就任するも家業管理のため辞職[11][12]。
父の死後は、家業を継ぎ上郡山倉岡合名会社無限社員や開原電気・開原市場株式会社取締役を務めた[3][4]。
戦後、亜細亜大学教養学部教授に就任[1]。1978年(昭和53年)死去[1][13]。

人物
満州赴任時代、汪兆銘政権の顧問だった影佐禎昭(谷垣禎一の祖父)の秘書官を務めており、影佐の死後に遺稿を整理した[15]。
家族・親戚
- 父・岩(1882年(明治15年)9月12日(または8月12日) - 1928年(昭和3年)4月6日、満州電気株式会社監査役)[3][6]
- 倉岡政利・志計子の長男として鹿児島県薩摩郡平佐村に生まれる[11][15][16]。同県立川内中学校を経て、1903年(明治36年)7月東京外国語学校清語学科を卒業[17]。日露戦争時には通訳官として活躍した。1905年(明治38年)12月辞職し、再び東京外国語学校に入学するも、1907年(明治40年)3月に病のため中退する[6]。同年5月満州に渡航し、得勝台・新台子において南満州鉄道より土地二百数十万坪を借用[11]。その後、農業に従事し、高梁酒(白酒)・豆粕・豆油の製造を営む上郡山倉岡合名会社を設立。後年、開原電気・開原銀行・開原実業信託等諸会社重役を歴任したが、1928年(昭和3年)に数え年48歳で他界した[11]。
略系図
| 末弘直方 | 山下房親 | 倉岡政利 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 野津鎮之助 | ヒロ子 | 直 | 啓次郎 | コウ | 龍岡栄吉 | 岩 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 正田英三郎 | 大原総一郎 | 真佐子 | 啓輔 | 久子 | 利行 (龍岡利行) | 克行 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 上皇明仁 | 上皇后美智子 | 修 | 泰子 | 洋輔 | 泰子 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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著書
- 『東南ア華僑の組織』学術選書、1971年。
所属学会
脚注
参考文献
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