アダム・イエジィ・チャルトリスキ
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アダム・イエジィ・チャルトリスキ(Adam Jerzy Czartoryski、1770年1月14日 - 1861年7月15日)は、ポーランドの貴族、政治家、文筆家、公。アダム・カジミェシュ・チャルトリスキ公爵の長男、母はイザベラ・フレミング。
概要 アダム・イエジィ・チャルトリスキ Adam Jerzy Czartoryski, 出生 ...
アダム・イエジィ・チャルトリスキ Adam Jerzy Czartoryski | |
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アダム・イエジィ・チャルトリスキ公、ナダール撮影 | |
出生 |
(1770-01-14) 1770年1月14日 ポーランド・リトアニア共和国、ワルシャワ |
死去 |
(1861-07-15) 1861年7月15日(91歳没) フランス帝国、モンフェルメイユ |
配偶者 | アンナ・ゾフィア・サピェジナ |
子女 |
ヴィトルト ヴワディスワフ イザベラ |
家名 | チャルトリスキ家 |
父親 | アダム・カジミェシュ・チャルトリスキ |
母親 | イザベラ・フレミング |
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チャルトリスキはロシア皇帝アレクサンドル1世の「若き友人」の一人として、アレクサンドルの治世当初に企図された改革に参画し、後に帝政ロシアの外務大臣を務めた。また稗史では、アレクサンドル1世の皇后エリザヴェータ・アレクセーエヴナの皇太子妃時代の不倫相手とも言われる。1804年から1806年までロシア大臣委員会議長(事実上の帝国宰相)を務めた後、1830年のロシアからの独立を目指し、十一月蜂起後成立したポーランド国民政府の首班となるが、十一月蜂起の敗北後、1万人のポーランド人とともにパリに亡命(大亡命)し、ポーランドの自治回復をロシアに働きかけた。