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イザベル・ド・ヴィルアルドゥアン(仏: Isabelle de Villehardouin, 1260/3年頃 - 1312年1月21日)は、アカイア公国の第4代君主ギヨーム2世・ド・ヴィルアルドゥアンの長女、公位継承者・共同統治者(1289年 - 1307年)。男子継承者のいなかった父ギヨーム2世にとって、イザベルはその系譜を継ぐ重要な後継者であった。イザベルは精力的な女性として父の意志を継ぎ、アカイア公国の存続に尽力した。
イザベルは父ギヨーム2世がシチリア王シャルル1世・ダンジューと締結したヴィテルボ協定(1267年)に基づき1271年5月28日、イタリアのトラーニにてシャルルの息子フィリップ(イタリア名フィリッポ)と結婚した。しかし夫フィリップは1277年、まだイザベルの父ギヨーム2世も義父シャルル1世も存命中に死去し、2人には子供がいなかった。このため、翌1278年のギヨームの死後、ヴィテルボ協定に基づいてシャルル1世がアカイア公位に就いた。シャルルの死(1285年)の後はフィリップの兄シャルル(カルロ)2世が継いだ。
イザベルはアカイア公位をヴィルアルドゥアン家に取り戻すべく、1289年9月16日、ラテン帝国継承者の近親フロラン・ド・エノー(エノー伯ジャン1世の子)と再婚する。シャルル2世はこの結婚によるイザベル・フロラン夫妻のアカイア公位請求権を認め、両名に譲った。両者はシャルルに忠誠を誓い、その臣下として共同統治を開始した。
フロランは1297年に死去し、イザベルは新たな共治者を求めて1301年2月12日にフィリップ・ド・サヴォワと3度目の結婚に踏み切った。しかしシャルル2世はこの共同統治に難色を示し、1306年6月5日にフィリップを廃して自分の息子ターラント公フィリッポ1世をアカイア公位に据えた。イザベルは翌1307年、前夫フロランの生家のあるエノー伯領(現ベルギー)へと移住した。
イザベルは1312年1月21日(1311年中に死去していたとする説もある)に死去し、ヴィルアルドゥアン家は事実上断絶した。しかし、なお娘マオー・ド・エノーがアカイア公位請求権を維持して政治活動を継続する事となった。
第1の夫フィリップ・ダンジュー(Philippe d'Anjou, 1277年没) - ナポリ・シチリア王シャルル1世・ダンジューの息子。1271年5月28日に結婚。子供はなし。
第2の夫フロラン・ド・エノー(Florent de Hainaut, 1255年 - 1297年1月23日) - エノー伯ジャン1世の末子。ラテン帝国皇室の血縁者でボードゥアン1世の曾孫にあたる。1289年12月16日結婚。1女が生まれた。
第3の夫ピエモンテ領主フィリップ・ド・サヴォワ(Philippe de Savoie, 1278年 - 1334年9月25日) - サヴォワ伯家出身。1301年2月12日結婚。1女が生まれた。
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