サルフの戦い
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サルフの戦い(サルフのたたかい、薩爾滸之戰、簡体字: 萨尔浒之战)は、1619年にヌルハチが率いる後金(のちの清)が明・朝鮮の後金討伐軍を破った戦い。大小の火器を動員し全軍を4つに分けて後金を包囲攻撃した明軍に対し、ヌルハチは夜襲によって銃砲の優位を封じたうえで混乱した敵軍を各個撃破することにより大軍を打ち破った。特に最初に行われた大きな戦闘が撫順東方のサルフ(sarhū、薩爾滸、簡体字: 萨尔浒)で行われたため、この戦役全体がサルフの戦いと呼ばれる。兵力・装備では圧倒的に優っていたにもかかわらず、諸将の対立によって各軍の連携・統制を欠いたこともあって、明・朝鮮の連合軍は4万5千人もの死傷者を出す大敗北を喫した。
概要 サルフの戦い, 交戦勢力 ...
サルフの戦い | |
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後金の騎兵と明の歩兵の戦闘 | |
戦争:明清戦争 | |
年月日:万暦47年/天命4年3月1日 - 3月5日(1619年4月14日 - 4月18日) | |
場所:撫順 | |
結果:6日間の戦闘の後、後金の完勝 | |
交戦勢力 | |
後金側 | 明側 |
指導者・指揮官 | |
ヌルハチ ダイシャン(中国語版) |
杜松 † 馬林(中国語版) |
戦力 | |
6万 | 16万(明は45万を号した) |
損害 | |
2千[1][2] | 4万7千 |
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建国間もない後金の存亡をかけた決戦であり、この戦いに勝利したことが後金興起の第一歩となり、やがて明・清の王朝交代へと繋がることになる。