市川房枝は平塚の青鞜社の運動には直接関わってはいない。平塚と市川が婦人運動で接点を持つのは青鞜社解散後である。市川は、1918年(大正7)名古屋新聞の婦人記者を辞めて上京した後、英語を習いに通っていた山田嘉吉(山田わかの夫)より平塚を紹介される。その後、「婦人の政治的、社会的な団体運動」の必要性を感じていた平塚が市川に声をかける。これが1919年に発足する「新婦人協会」。222.148.41.142 20050629
戦前に婦人参政権法案が衆議院で通過して貴族院で廃案になったことが一回あった筈ですが…。