ボストン茶会事件
1773年に現アメリカのマサチューセッツ植民地で発生した抗議事件 / ウィキペディア フリーな encyclopedia
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ボストン茶会事件(ボストンちゃかいじけん、英: The Boston Tea Party)は、1773年12月16日にイギリス領マサチューセッツ湾直轄植民地(現アメリカ合衆国マサチューセッツ州)のボストンにおいて、植民地人の急進派がイギリス本国議会(グレートブリテン議会(英語版))に対する抗議として停泊中の船舶から積荷の茶箱を海に大量投棄した事件。アメリカ史において、後のアメリカ独立戦争への転機になった出来事と評される。
ボストン茶会事件 | |||
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ボストン茶会事件を描いたリトグラフ | |||
日時 | 1773年12月16日 | ||
場所 | イギリス領 マサチューセッツ湾直轄植民地ボストン | ||
原因 | 茶法の制定 | ||
目的 | イギリス議会による茶葉への課税に対する抗議(代表なくして課税なし)。 | ||
手段 | 積荷の茶葉を海に投棄 | ||
結果 | 耐え難き諸法の制定による自治権の剥奪 | ||
参加集団 | |||
指導者 | |||
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発端は1773年5月10日にイギリス議会で制定された茶法であった。この法律はイギリス東インド会社がアメリカ植民地で中国産の茶葉を直接販売するにあたって、販売独占権が与えられると共に、植民地に課せられたタウンゼンド諸法に基づく関税の実質的な免税を受けるものであった。この処置は植民地に正規輸入された茶葉の値段を押し下げる効果をもたらすものであったが、植民地ではもともとタウンゼンド諸法は自分たちの課税権を侵害するものと強く反対されており、茶法に対する抗議活動が盛んになった。植民地全体で茶葉の荷揚げを防止するといった抗議活動が盛んになる中で、マサチューセッツのみ、同地のトマス・ハッチンソン総督が荷揚げを許可したことにより、ボストン港には東インド会社の茶葉を積んだ船舶が停泊していた。こうした中にあって同地の急進派「自由の息子達(サンズ・オブ・リバティ)」はインディアンを装ってその船舶に侵入すると、積荷の茶箱をすべて海に投げ捨てた。
ボストン茶会事件は、茶法に対する反対運動の集大成であり、「代表なくして課税なし」を代表するものであった。一方のイギリス政府は、これに強力に対応し、翌1774年にいわゆる「耐え難き諸法」を制定してボストン港を閉鎖すると共に、マサチューセッツ湾植民地の自治権を奪った。この処置は他の植民地政府への見せしめ的な要素も帯びていたが、結果として13植民地の強い反発と連携を生み、第1回大陸会議の実施に至った。そして二年後1775年にボストン近郊での戦闘(レキシントン・コンコードの戦い)をきっかけにアメリカ独立戦争が勃発することになる。
なお、事件当時は、単に「茶葉の破壊」(destruction of the tea)と呼ばれ、その後も長らく大きく扱われない故事であったが、歴史家のアルフレッド・ヤング(英語版)によれば、1834年に初めて "Boston Tea Party" という言葉が印刷物に登場したという。"Party" には日本語の「会」と同じく「党」や「集団」という意味もあるが、少なくとも事件当時において "Tea Party"(直訳で「茶党」)と名乗る集団がいたわけではない。現代でも政府の権限や在り方に対する抗議者がティーパーティー(Tea Party)を引用したり、名乗る例があり、2000年代後半においてはリバタリアニズムに基づく政治運動において、ティーパーティーを標榜するものが起こった(ティーパーティー運動)。