ヤッシー=キシニョフ攻勢
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ヤッシー=キシニョフ攻勢(ヤッシー=キシニョフ作戦、[1][5][6][7]ロシア語: Ясско-кишинёвская стратегическая наступательная операция、ヤッシー=キシニョフ戦略攻勢作戦[8])とは、1944年8月20日から29日までルーマニア東部で行われたソ連軍による枢軸軍への攻撃作戦。ソ連軍の第2、第3ウクライナ方面軍はドイツ軍とルーマニア軍で構成された南ウクライナ軍集団と対峙していたが、モルダビア・ソビエト社会主義共和国を取り戻し、この地域の枢軸軍を撃破してルーマニア及びバルカン半島への道を開こうとした。ヤッシー=キシニョフは、作戦に関連するルーマニアの2つの主要都市ヤシ、キシナウのロシア語読みを意味する。
概要 ヤッシー=キシニョフ攻勢, 交戦勢力 ...
ヤッシー=キシニョフ攻勢 | |
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ヤッシー=キシニョフ攻勢における戦線 | |
戦争:第二次世界大戦、独ソ戦 | |
年月日:1944年8月20日 - 8月29日[1] | |
場所:ヤシ、 キシナウ | |
結果:ソ連軍の勝利[2] | |
交戦勢力 | |
ドイツ国 ルーマニア王国(20日−23日) |
ソビエト連邦 ルーマニア王国(23日−29日) アメリカ合衆国 |
指導者・指揮官 | |
アドルフ・ヒトラー ヨハネス・フリースナー オットー・ヴェーラー マクシミリアン・フレッター=ピコ(英語版) アルフレート・ゲルシュテンベルク(英語版) イオン・アントネスク イリエ・シュテフレア ペトレ・ドゥミトレスク ミハイ・ラコヴィッツァ |
ヨシフ・スターリン セミョーン・チモシェンコ ロディオン・マリノフスキー フョードル・トルブーヒン フィリップ・オクチャーブリスキー ミハイ1世 コンスタンチン・サナテスク ゲオルゲ・ミハイル ニコラエ・マチチ |
戦力 | |
ドイツ軍 将兵:500,000名 ルーマニア軍 将兵1,224,000名 戦車:170両 航空機:800機 |
将兵:1,341,200名 戦車・突撃砲:1,874両 |
損害 | |
ドイツ軍 戦死・負傷・捕虜 150,000名 ルーマニア軍 戦死・負傷:不明 捕虜 120,000名[3] |
戦死13,197名 負傷・戦病:53,933名[4] |
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攻撃の結果、防御側のドイツ軍は包囲殲滅され、ソ連軍はルーマニア本土に奥深く侵攻。ルーマニアでは政変がおきて、枢軸側からソビエト連邦側へ立場を変えることになった。