三河物語
江戸時代初期の旗本の大久保忠教の著作 / ウィキペディア フリーな encyclopedia
親愛なるWikiwand AI, これらの重要な質問に答えるだけで、簡潔にしましょう:
トップの事実と統計を挙げていただけますか 三河物語?
この記事を 10 歳向けに要約してください
すべての質問を表示
『三河物語』(みかわものがたり)は、江戸時代初期の、旗本の大久保忠教による著作。戦国時代から江戸時代初期を知るための史料とされることもあるが、徳川史観による偏った記述により資料としての正確性は欠如している。
ウィキソースに三河物語の原文「我等共の因果は此因果なり。さて又信長などの因果はたちまちにむくはせ給ふ。其をいかにと申に、みのゝくに岩もろの城にて甲州衆を攻おとさせ給ひ、二の丸へ押入堄をゆひて、こと〴〵くやきころし給ふ。其後甲州へ乱入給ひし時、ゑりん寺の智識達其外の出家達を鐘楼堂へおひ上て、火を付てこと〴〵くやきころし給ふ。比は三月の事成に、其年の六月二日にはあけち日向守べつしんして、二条本能寺にてやきころされ給ふは、因果は早くむくいたるかと見えたり。さて又太閤の関白殿御べつしんとて腹を切せ奉りて、御手かけ衆を三十人斗、何れもれき〳〵の衆の娘達を、三条磧へ引出して頭を切て、一ツあなへ取入て畜生塚と名付て、三条につかを築給ふ事も因果、又三七殿は信長の御子なれば、太閤のためには主にて有物を、ぬまの内海にて御腹を切せ給ふ事も因果なり。昔は長田今は太閤なり。又家康様へ毒をまいらせんと被成けるに、座敷にて御しき代を被成て、御座敷が大和大納言の、上座より下座へ御さがり被成候故に、其御膳が大和大納言にすわりて、太閤の舎弟の大和大納言まゐりて死給ふ。是と申も相国様御じひにて御正直故に、天道の御恵深くして不被参、大和大納言の参りたるも因果なり」があります。