伊東静雄
日本の詩人 (1906 - 1953) / ウィキペディア フリーな encyclopedia
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伊東 静雄(いとう しずお、1906年(明治39年)12月10日 - 1953年(昭和28年)3月12日)は、日本の詩人。現在の長崎県諫早市出身。
京大の友人と同人雑誌「呂」を創刊し、毎号詩を発表した。保田与重郎を通して萩原朔太郎の知るところとなり、その詩を激賞された。作品に『わがひとに与ふる哀歌』(1935年)、『夏花』(1940年)など。
長崎県立大村中学(現:長崎県立大村高等学校)から、旧制佐賀高等学校(現:佐賀大学)を経て京都帝国大学文学部国文科に学んだ。
卒業後は公立学校教員(公務員)となり大阪府立住吉中学校(現:大阪府立住吉高等学校)教諭となった。終戦後は大阪府立阿倍野高等学校に転勤。詩作活動に耽る傍ら、地方公務員の教員としても勤務するという「二足の草鞋」を履き、生涯教職から離れなかった。
旧制住吉中学時代には、『古事記』を教えていたことと、その流行を追わないスタイルから「コジキ」というあだ名をつけられていた名物教師だったというエピソードが残っている。
京大在学中には、文学部教授に旧制大村中学の先輩である朝永三十郎(1965年ノーベル物理学賞を受賞した朝永振一郎の父親)が、旧制住吉中学当時の教え子には、第三の新人の一人である小説家の庄野潤三や芥川賞候補作家の清水幸義、2008年ノーベル化学賞を受賞した下村脩がいた[1]。旧制大村中学の先輩に文芸評論家の福田清人、同学年に早稲田大学文学部教授で国文学者(近代文学専攻)の川副国基、國學院大學文学部教授となった古典中国文学者の蒲池歓一(かまち かんいち)がいる。
詩作は大学卒業の頃より始めた。1932年(昭和7年)、同人誌『呂』を創刊。のち『呂』を離れて、同人誌『コギト』に専念する。1935年(昭和10年)10月5日、処女詩集であり代表作『わがひとに与ふる哀歌』を発行し、萩原朔太郎から「日本にまだ一人、詩人が残っていた」と賞賛を受け一気に名声を高めた[2]。当時日本浪曼派の代表的な詩人としてその機関紙の同人でもあり、評論での保田與重郎と並び同時代に多大な影響を与えた。また日本古典文学やリルケの造詣の深さに由来した、浪漫的で日本的な叙事詩に耽美性を加えたその作風は、少年期の三島由紀夫にも多大な影響を与えた[3]。1940年(昭和15年)には第二詩集「夏花」を刊行。1941年(昭和16年)には三好達治、中原中也、立原道造らとともに、詩同人誌「四季」に参加・交流。蓮田善明とも交流があり、蓮田が最後に出征する際、蓮田の乗った列車を大阪駅で見送っている。
1943年(昭和18年)9月5日に第三詩集「春のいそぎ」を刊行。1947年(昭和22年)に第四詩集「反響」を刊行。1953年(昭和28年)3月12日、肺結核のため大阪府河内長野市の国立病院長野分院(現:国立病院機構大阪南医療センター)で死去[4]。死後まもなく「反響以後」が刊行された。戒名は文林院静光詩仙居士。
忌日に近い3月末の日曜日には、菜の花忌として顕彰。諫早市の伊東静雄顕彰委員会によって、現代詩を賞する伊東静雄賞が設けられている。
- 詩集
- 著作
- 『伊東静雄全集』(全1巻)、桑原武夫・富士正晴・小高根二郎編、人文書院 1961年、増補改訂版1966年
- 『伊東静雄詩集』岩波文庫 杉本秀太郎編、初版1988年
- 『作家の自伝69 伊東静雄 詩集わがひとに与ふる哀歌/京都』久米依子編、<シリーズ・人間図書館>日本図書センター、1998年
- 『近代浪漫派文庫35 蓮田善明/伊東静雄』新学社[6]、2005年
- 『伊東静雄 青春書簡 詩人への序奏』[7]大塚梓・田中俊廣 編、本多企画、1997年
- 『伊東静雄日記 詩へのかどで』思潮社、2010年[8]
伝記
研究評伝
- 小川和佑『伊東静雄論』五月書房 1973年
- 小川和佑『伊東静雄論考』叢文社 1983年
- 田中俊廣『痛き夢の行方 伊東静雄論』日本図書センター 2003年
- 山本皓造『伊東静雄と大阪・京都』「ソフィア叢書5」竹林館 2002年
- 永藤武『伊東静雄論・中原中也論』おうふう 2002年
- 米倉巌『伊東静雄 憂情の美学』 審美社 1985年
- 三宅武治『伊東静雄 その人生と詩』花神社 1982年
- 野村聡『伊東静雄』審美社 1996年
- 城戸朱理『詩人の夏 西脇順三郎と伊東静雄』矢立出版 1994年
- 高橋渡『雑誌コギトと伊東静雄』双文社出版 1992年
- 溝口章『伊東静雄―詠唱の詩碑』土曜美術社出版販売 1998年
- 青木由弥子『伊東静雄 戦時下の抒情』土曜美術社出版販売 2023年
- 下村氏ノーベル化学賞受賞 長崎新聞 2008年10月10日閲覧
- 萩原朔太郎が編んだ『昭和詩鈔』(冨山房百科文庫、復刻1977年)にも収録された。
- 三島は十代後半に、生涯一度だけ大阪で会っている。1942年(昭和17年)の三島宛の葉書では「これからも沢山書いて、新しき星になつて下さい、それを信じて待ちます」と三島を励まし作品を評価している。しかし、戦後公開された日記の中では、三島のことを「俗人」「三島から手紙。面白くない。背伸びした無理な文章」などの酷評が残されている。また伊東が三島を「吹けば飛ぶような小才子」と評したとの証言も明らかにされた。三島は『新潮』1966年11月号に「伊東静雄の詩 わが詩歌」で「あの人は一個の小人物だつた。それでゐて、飛び切りの詩人だつた」と述べ、三島に与えられた「俗人」という評価に抗しつつ、その世俗に汚れなかった繊細な魂と詩を哀悼、賞賛し、全集推薦の辞でも「伊東静雄氏は私のもつとも敬愛する詩人であり、客観的に見ても、一流中の一流だと思ふ」と述べている。
- 第7刷が最終。刊行後に判明した追補資料が別刷りで添付されている
- 収録作品は、伊東静雄詩集(わがひとに与ふる哀歌/夏花/春のいそぎ/反響抄/反響以後/拾遺詩篇より)と、日記抄。
- 16歳から23歳までの書簡133通と資料解説