東寺長者
東寺の長官 / ウィキペディア フリーな encyclopedia
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東寺長者(とうじちょうじゃ)は、東寺(教王護国寺)の管理者・長官である僧侶の呼称。東寺真言宗の長であると共に、真言宗の最高位としての権威を兼ね備えた。正式には単に長者(ちょうじゃ)と呼ばれているが、氏長者と紛らわしいために「東寺長者」と呼ばれることが多い。厳密な意味での初代長者は、承和3年(836年)5月に補任された実恵である。ただし、後世の寺伝では、東寺別当だった弘法大師空海を第1世長者と数える場合が多い。はじめは定員1名だったが、順次増員されて最終的に安和2年(969年)に定員4名となり、その中での筆頭は特に一長者(いちのちょうじゃ[1])または一阿闍梨と呼ばれた。また、一長者は律令制における全仏教界の上首である法務(正法務)も兼任する慣例だった。
この他、中世には東寺座主(とうじざす)という僧職もあった。東寺長者よりさらに上の地位であり、鎌倉時代後期に後宇多上皇が東寺一長者経験者の禅助や道意を補任したのが始まりである。のち南朝の後醍醐天皇が再興し、かつて建武政権下で第120代東寺一長者を務めたこともある文観房弘真が、延元4年/暦応2年(1339年)6月26日に第3代東寺座主に補任された。ただし、文観の東寺座主は実権の伴わない名誉職的なものであり、後醍醐が父である後宇多の仏教政策を継承していることや、南朝が真言密教の大寺院に対しても任命権を持っていることなどを示すための政治的意図が大きかったと考えられている。南朝の衰亡と共に自然消滅した。