母里友信
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母里 友信(もり とものぶ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。黒田氏の家臣。通称は太兵衛(たへえ)、多兵衛(たひょうえ)。幼名は万助。但馬守を称す。
概要 凡例母里友信, 時代 ...
母里友信像(福岡市博物館蔵) | |
時代 | 戦国時代 - 江戸時代前期 |
生誕 | 弘治2年(1556年) |
死没 | 慶長20年6月6日(1615年7月1日) |
改名 | 曽我万助(幼名)→母里友信→毛利友信 |
別名 | 太兵衛、多兵衛(通称) |
戒名 | 麟翁紹仁 |
墓所 | 麟翁寺(福岡県嘉麻市) |
官位 | 但馬守 |
主君 | 黒田孝高 → 長政 |
藩 | 筑前国福岡藩士 |
氏族 | 曽我氏 → 母里氏 |
父母 | 父:曽我一信、母:母里氏(母里小兵衛の妹) |
兄弟 | 曽我太郎兵衛、母里友信、野村祐勝 |
妻 | 大友宗麟の娘 |
子 | 母里吉太夫(嫡男、早世)、母里友生、母里市郎右衛門、娘(桐山信行室) |
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槍術に優れた剛力の勇将として知られ、栗山利安と共に黒田軍の先手両翼の大将を務めた。黒田二十四騎の中でも特に重用された黒田八虎の一人である。また、「黒田節」に謡われる名槍「日本号」を福島正則から呑み獲った逸話でも知られる。
「もり」という読みから江戸幕府の文書などに「毛利」と誤記され、実際に一時期「毛利」と改姓したため毛利但馬、毛利太兵衛と表記されることも多い。なお、黒田家中での正式な読みは「ぼり」であり、福岡県内(福岡市博物館など)では現在でもこう読まれることもある。