エル・アラメインの戦い
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エル・アラメインの戦い(エル・アラメインのたたかい)は、第二次世界大戦の北アフリカ戦線における枢軸国軍と連合国軍の戦いである。第一次会戦は1942年7月1日から31日。第二次会戦は同年10月23日から11月11日に行われた。
概要 エル・アラメインの戦い, 交戦勢力 ...
エル・アラメインの戦い | |
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エル・アラメインで捕らえたドイツ軍捕虜を監視するニュージーランド兵 | |
戦争:第二次世界大戦北アフリカ戦線 | |
年月日:1942年6月 - 8月2日、同年11月11日 [1] | |
場所:英領エジプト、エル・アラメイン | |
結果:連合軍の勝利[2] | |
交戦勢力 | |
連合国 | 枢軸国 |
指導者・指揮官 | |
クロード・オーキンレック ハロルド・アレグザンダー バーナード・モントゴメリー ハーバード・ラムズデン(英語版) ブライアン・ホロックス オリバー・リース(英語版) |
エルヴィン・ロンメル ゲオルク・シュトゥンメ † ヴィルヘルム・フォン・トーマ(捕虜) ウーゴ・カヴァッレーロ エットーレ・バスティコ エネア・ナヴァリーニ(英語版) ジュゼッペ・デ・ステファニス(英語版) エンリコ・フラッティーニ(英語版)(捕虜) |
戦力 | |
兵力195,000人[3] 戦車1,200輌[4] (500輌のM4中戦車とM3中戦車を含む)[5] QF 25ポンド砲832門[6] 対戦車砲1,253門 (オードナンス QF 6ポンド砲753門、オードナンス QF 2ポンド砲500門)[7] 航空機750機[8] |
兵力135,000人[9] 戦車489輌[10] 火砲552門[11] 対戦車砲1,063門 (高射砲8.8 cm FlaK 18/36/37を含む)[12] 航空機675機[13] |
損害 | |
●第一次エル・アラメイン会戦 13,250人死傷[14] ●アラム・ハルファの戦い 1,750人死傷・捕虜[15] ●第二次エル・アラメイン会戦 13,600人死傷[16] |
●マルサ・マトルーフの戦いから第一次エル・アラメイン会戦まで ドイツ軍 9,800人死傷[17] 2,700人捕虜[18] イタリア軍 11,000人死傷[19] 5,000人捕虜[20] ●アラム・ハルファの戦い ドイツ軍 2,091人死傷・行方不明[21] イタリア軍 1,051人死傷[22] ●第二次エル・アラメイン会戦 ドイツ軍 30,000人死傷[23] うち7,200人捕虜 イタリア軍 45,000人死傷もしくは捕虜[24] |
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2013年のロイターの記事において、「ミッドウェー海戦、スターリングラードの戦い、インパール作戦と共に第二次世界大戦の主な転換点の戦い」と評されている[25]。