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平安時代中期から後期の公卿・歌人。藤原北家小野宮流。藤原経平の次男。二位・権中納言。『後拾遺和歌集』選者 ウィキペディアから
藤原 通俊(ふじわら の みちとし)は、平安時代中期から後期にかけての公卿・歌人。藤原北家小野宮流、大宰大弐・藤原経平の次男。官位は従二位・権中納言。
妹で典侍を務めていた経子が承保2年(1075年)に皇子(覚行法親王)を産むなど、白河天皇の寵愛を受けたこともあって、通俊は天皇の側近となり少納言・五位蔵人を歴任する。承保2年(1075年)正五位下・左少弁に叙任されると、承保4年(1077年)従四位上・右中弁、承暦3年(1079年)正四位下、承暦4年(1080年)蔵人頭(頭弁)、永保2年(1082年)左中弁、永保3年(1083年)正四位上と弁官を務めながら順調に昇進し、応徳元年(1084年)参議兼右大弁に任ぜられ公卿に列した。白河朝末の応徳3年(1086年)従三位に叙せられた。
白河院政期に入っても寛治2年(1088年)には白河院別当に任ぜられて、引き続き院近臣として白河上皇に仕える。同年正三位に叙せられ、寛治6年(1092年)には大蔵卿も兼ねた。寛治8年(1094年)従二位・権中納言に至る。
承徳2年(1098年)姉・藤原睦子の娘である藤原苡子が堀河天皇に入内し女御となる。承徳3年(1099年)8月16日薨去。享年53。
白河天皇の歌壇で活躍し、「承暦内裏歌合」といった多くの歌合に出詠する。承保2年(1075年)勅撰和歌集の撰集を命ぜられるが、当時、それほど歌人として名高いわけではない通俊が撰集を担当した理由は明らかではない[1]。通俊は歌壇の先人たちに協力を求め、草稿本に対して周防内侍・康資王母・源経信らの内覧を経て、応徳3年(1086年)『後拾遺和歌集』を撰進した。その後も、当時の歌壇の重鎮であった経信とは『難後拾遺』『後拾遺問答』を取り交わすなど、経信の意見が選歌の入れ替えに影響し、応徳4年(1087年)に通俊は再奏を行っている。『後拾遺和歌集』(5首)以下の勅撰和歌集に27首が入集しているが[2]、家集は伝わっていない。
小野宮流の有職故実に詳しく、多くの公事に奉仕するなど、能吏としての評価が高かった。また、漢詩文にも優れ、大江匡房と並称された[3]。
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