Loading AI tools
かつて日本テレビ系列で放送されていた深夜番組(1965−1990) ウィキペディアから
『11PM』(イレブン・ピーエム)は、日本テレビと読売テレビの制作により、1965年(昭和40年)11月8日から1990年(平成2年)3月30日まで約24年半にわたって日本テレビ系列で放送されていた深夜番組かつ日本初の「深夜お色気番組」である。基本的に生放送だった。
WIDE SHOW 11PM | |
---|---|
ジャンル | バラエティ |
企画 | 井原高忠 |
司会者 |
大橋巨泉 愛川欽也 藤本義一 小島正雄 三木鮎郎 山崎英祐 江本孟紀 村野武憲 吉田照美 三枝成彰 高田純次 所ジョージ 斎藤晴彦 由利徹 関根勤 (出演者を参照) |
オープニング | 三保敬太郎「11PM のテーマ」 |
エンディング | 同上 |
製作 | |
プロデューサー | 後藤達彦 |
製作 |
日本テレビ(月曜日・水曜日・金曜日) よみうりテレビ(火曜日・木曜日) |
放送 | |
放送国・地域 | 日本 |
放送期間 | 1965年11月8日 - 1990年3月30日 |
放送時間 | 下記参照 |
回数 | 全8625 |
特記事項: 1968年9月30日(月)放送分からカラー放送[1](これに伴い、よみうりテレビ制作分も、翌日(10月1日(火))放送分からカラー[2]) 一時期、土曜日は名古屋テレビ制作で放送していた。(#番組概要参照) |
正式名称は『WIDE SHOW 11PM』、略称は「イレブン」。「イレピー」とも。日本テレビ製作分と読売テレビ製作分を区別する意味合いで「東京イレブン」「大阪イレブン」という呼称もあった。開始当初は午後のことを「PM」(Post Meridiem)と呼ぶ概念がまだ薄かった時代であり、新聞のテレビ欄に「11P・M」と記載されていた。
通算放送回数は東京イレブンが6095回、大阪イレブンが2530回、合計8625回だった。 最高視聴率は1973年12月に放送された「東西ストリップ合戦」で48パーセント超だった[3]。
毎週月曜日・水曜日・金曜日は日本テレビが、火曜日・木曜日はよみうりテレビが制作し放送した。日本テレビでは大橋巨泉、愛川欽也、読売テレビは作家の藤本義一が主に司会を担当し、お色気から硬派な社会問題まで幅広く取り上げた。アシスタントは朝丘雪路、松岡きっこ、一谷伸江らが担当した。
木曜放送分は系列各局を回りながら、その土地の名物や風俗を探訪する企画を[注釈 1]、また金曜には週末情報の色合いを強め、釣りや麻雀のコーナーを放送していた。
1972年6月からは土曜日の放送が加わり、名古屋テレビが制作した[注釈 2]。同局担当分はフォークソングやロックなどこれまでテレビではあまり取り上げなかった分野に取り組み、毎回ミュージシャンをゲスト出演させていた。名古屋テレビ制作分は1973年3月の中京広域圏のネット再編に伴い打ち切りとなった[6][7]。
当時から「ワースト番組」「低俗番組」「エロブンPM」などと呼ばれ、PTAや婦人団体から批判や抗議は多く、子供に見せたくない番組と一方的なレッテル貼りをされ[8]、当然のごとくPTAのアンケートにおいても、その子供に見せたくない番組ランキングの上位の常連に名を連ねた。政治家からの批判もあり、1975年には日本共産党中央委員会幹部会委員長(当時)の宮本顕治から「ポルノ番組だ」と非難された。それが証拠に放送当時、未成年の学生だった者もエロい番組だと認識していて、親に隠れて見ていた者は少なくない。コラムニストの泉麻人は、実家のテレビで「親が寝るのを見計らってこっそり観ていました」「バニーガールの太ももを舐めるような撮り方にドキッとした」と振り返る[9]。嘉門タツオも「11PMを見ていて親が部屋に入って来たら別のチャンネルに変える」とネタにしている。
一方寺山修司や山本直純などの文化人からは評判が良く、作家の井上ひさしは1972年の雑誌の中で「最良のテレビ番組は『11PM』だ。そこには知恵があり、熱気があり、一生懸命テーマを出そうとする気概がある。これが面白くなくてなんであろうか」と絶賛した[10]。久米宏は熱心に11PMを視聴し、アナウンサーになってからも番組制作の参考にしたと述懐している。
シルエットのラインダンサーが踊るアニメーションをバックにしたスキャットによるオープニングテーマ、エンディングテーマは共に三保敬太郎の即興作曲によるもの。正式なタイトルは「11PMのテーマ」。
録音には2バージョンあり、オリジナルはクラシック出身の増田順平・睦美夫妻によるもので「パー!サバダバ」ではなく、「イー!サバダバ」と歌っている。「パー!サバダバ」のバージョンは番組開始1年後に再録されたもので、男声のパートは岡崎広志(岡田愛詩)、女声のパートは伊集加代による。日本テレビ制作の東京イレブンでは「パー!サバダバ」のバージョンが、読売テレビ制作の大阪イレブンでは「イー!サバダバ」のバージョンが使われた。1999年に放送された『11回忌法要スペシャル』では、「イー!サバダバ」のバージョンが採用されている。
1980年9月25日、3人の女性グループ「あらん・どろん」が「ウィ!シャバダバ」のタイトルでカバー(ワーナー・パイオニア 規格品番:L-371W)したことから、後にこちらが一般的なタイトルとして認知されることもある。あらん・どろんは金曜の巨泉司会時代に顔出しをしてテーマ音楽を担当していた時期がある。通常のテーマ曲の後、別の歌詞での歌が入る。
2000年には「パー!サバダバ」バージョンによるオープニング、エンディングテーマ(各21秒)に加え、新たな編集によるロングバージョン(1分9秒)を加えたCDが発売された(バップ 規格品番:VPCD-82136)。「イー!サバダバ」のスキャットが含まれたオープニングテーマは1966年に日本ビクターから発売された「ミュージック・フォー・11P.M.」にて音盤化(演奏は猪俣猛オールスターズ。歌手名は表記なし)。2001年に発売されたCD「60'sTVヒッツ・コレクション」(テイチク、規格品番:TECD-25463)に収録されている。
2009年、NHK-BS2の司会者を特集する番組でOPが放送され、徳光和夫が「まさかNHKでこの曲が流れるとは思わなかった」と感想を述べた。
番組内の挿入歌としては、クロディーヌ・ロンジェの「Hurry On Down」が、CM前に映されるカバーガールのバックで数秒流された[注釈 3]。
巨泉と朝丘のオープニングの掛け合いである「野球は巨人、司会は巨泉の大橋巨泉と」「朝がまるで弱い朝丘雪路です」というやり取りは当時盛んにものまねの対象にされた。1999年の復活特番の際は、この年のプロ野球日本一がダイエーだったため「野球はダイエー、司会は巨泉の大橋巨泉と」「朝まるで弱くなくなっちゃった朝丘雪路」と自己紹介していた。
最後の挨拶は必ず、「明日(来週)は{東京・日本テレビ/大阪・読売テレビ}からお送りします。(おやすみなさい。)」の一言で締めくくられていた。
「視聴率不毛の時間帯」とされていた深夜番組の時間帯の開拓に乗り出し、日本教育テレビ(NETテレビ、現在:テレビ朝日)の『モーニングショー』同様、アメリカの深夜情報番組『ザ・トゥナイト・ショー』をヒントに企画された。「お色気番組の元祖」的な位置づけをされる番組だが、初期は週刊読売編集長だった山崎英祐が司会を務め、時事問題についての考察を述べるスタイルの、日本テレビ報道局制作の硬派番組であった。
しかし全く視聴率が取れず、テコ入れ策として横田岳夫ディレクターから「どうしたらいい?」と相談を受けた大橋巨泉が「今まで扱ってこなかった“遊び”の要素を取り上げたら?深夜だから大丈夫だろう」と提案。横田も同調し番組の変革を思案したが、司会役を巡って調整が難航(三橋達也をはじめ高島忠夫、藤村有弘ら4人ぐらいのタレントに司会を打診したがいずれも断られてしまった[13])、ついに横田から「いっそのこと巨泉、自分で喋っちゃったら?」と頼まれたため、「巨泉のなんでもコーナー」という名前で巨泉自らコーナー司会を務めることになった[14]。その後、山崎に代わる司会として打診した小島正雄に「(月曜日・水曜日・金曜日の)週3日はしんどいから2日にしてくれ」と要望されたことがきっかけで、横田の推薦で既に番組視聴者に顔と名前が知られていた巨泉に白羽の矢が立つ。これを機に巨泉はこれまでの放送作家から司会者に転身することとなった[13]。
巨泉は月曜日・金曜日と週2回司会を務めることになったが、月曜日も担当することになったのは1968年1月に小島が突然急死して後釜の手配がつかなかったためで、当初は月曜日・水曜日についてはピンチヒッターという扱いで日本テレビ制作の3日分すべての司会を巨泉が担当した。そして2月中旬から水曜日は当時の大阪イレブンで人気を得ていた元芸妓の安藤孝子の起用例に倣い、銀座の現役クラブママであった堤妙子を起用[注釈 4]、月曜日については局側の意向が強く働いたこともあり結局そのまま巨泉が正式な後任となった[15]。
当初は月曜日 - 木曜日はタイトル通り23:00丁度のスタートで、金曜日のみ『日本プロレス中継』や『金曜夜席』の放送があったため、23:15スタート。NNN最終版ニュース『きょうの出来事』をインサートした。後に『きょうの出来事』は23:00丁度に放送時間が移動して再び独立し、『きょうの出来事』の放送時間拡大が進むにつれ、『11PM』は放送時間が23:15→23:10→再び23:15→23:20→23:30(金曜日は『TVムック・謎学の旅』が入ったため23:45)というように放送時間が繰り下がってゆく。番組末期には23:55スタートとなり、プロ野球中継(巨人戦)の時間延長やゴールデンタイムの特別番組の影響で午前0時台にスタートしてしまうことも少なくなかった。
最も遅く始まった回は、1988年7月26日放送の火曜イレブンで、日本テレビが中継したプロ野球オールスターゲームの放送が1時間延長されたため、午前0時55分からスタートした。また、23:15スタートの時代にはタイトルロゴに「+15」が、23:20スタートの時代には「+20」が付加されていた。
基本的に本番組は生放送だったが、状況によって収録の場合もあったとされ、末期の金曜レギュラーの吉田照美が『日刊ゲンダイ』の短期連載で記したところでは、本番数時間前の夕方に疑似生放送(いわゆる撮って出し)で収録することが多かったとのことである[注釈 5]。当時、高校生であり、法律により本来出演できる時間帯ではない小栗香織が金曜日に出演していたのはそれが理由である[16]。
放送期間 | 放送時間(JST) | |
---|---|---|
月曜 - 木曜 | 金曜 | |
1965年11月8日 - 1966年9月30日 | 23:00 - 翌0:00(60分) | 23:15 - 翌0:00(45分) |
1966年10月3日 - 1969年3月28日 | 23:15 - 翌0:15(60分) | |
1969年3月31日 - 1972年3月31日 | 23:10 - 翌0:20(70分) | |
1972年4月3日 - 1974年3月29日 | 23:15 - 翌0:23(68分) | |
1974年4月1日 - 1980年3月28日 | 23:15 - 翌0:21(66分) | |
1980年3月31日 - 1985年4月4日 | 23:20 - 翌0:25(65分) | |
1985年4月5日 - 1988年4月1日 | 23:30 - 翌0:35(65分) | 23:45 - 翌0:50(65分) |
1988年4月4日 - 1990年3月30日 | 23:55 - 翌0:55(60分) |
期間 | 司会者 | アシスタント | ||||
---|---|---|---|---|---|---|
月曜日 | 水曜日[注 1] | 金曜日 | 月曜日 | 水曜日 | 金曜日 | |
1965年11月8日 - 1966年4月1日 | 山崎英祐 | 高原良子 | ||||
1966年4月4日 - 1967年12月1日 | 小島正雄 | 大橋巨泉 | (不在) | 朝丘雪路[注 2] | ||
1967年12月4日 - 1968年2月2日 | 應蘭芳[注 3] | |||||
1968年2月5日 - 3月29日 | 大橋巨泉 [注 4] | 堤妙子[注 4] | ||||
1968年4月1日 - 6月28日 | 沢知美 | (不在) | ||||
1968年7月1日 - 8月30日 | 朝丘雪路[注 5] | |||||
1968年9月2日 - 1969年4月4日 | 三木鮎郎 | ジューン・アダムス | ||||
1969年4月7日 - 1971年10月1日 | 松岡きっこ | |||||
1971年10月4日 - 1973年12月28日 | ジュディ・アントン | |||||
1974年1月4日 - 1977年12月30日 | 愛川欽也 | 秋川リサ[注 6] | ||||
1978年1月4日 - 1981年12月30日 | かたせ梨乃 | |||||
1982年1月4日 - 5月28日 | 朝倉匠子 | |||||
1982年5月31日 - 1983年5月27日 | 梓みちよ | |||||
1983年5月30日 - 1985年3月29日 | 高樹澪 | |||||
1985年4月1日 - 9月27日 | 江本孟紀 | 秋野暢子 | ||||
1985年9月30日 - 1986年3月28日 | 村野武憲 吉田照美 | 戸川京子 | ||||
1986年3月31日 - 9月26日 | 三枝成彰 高田純次 | 所ジョージ 斎藤晴彦 由利徹 | 村上里佳子[注 4] | (不在) | ||
1986年9月29日 - 1987年6月26日 | 斎藤晴彦 由利徹 | 松金よね子 浅田美代子 | ||||
1987年6月29日 - 1988年4月1日 | 斎藤晴彦 関根勤 | 冴木杏奈 | ||||
1988年4月4日 - 12月30日 | 三枝成彰 吉田照美 | 高田純次 関根勤 | 中川比佐子 | 井森美幸 財前直見 | ||
1989年1月4日 - 3月31日 | 井森美幸 鷲尾いさ子 | |||||
1989年4月3日 - 1990年3月30日 | 高田純次 吉田照美 | 鷲尾いさ子 | 井森美幸 |
期間 | 司会者 | アシスタント | ||||
---|---|---|---|---|---|---|
メイン | サブ | |||||
火曜日 | 木曜日 | 火曜日 | 木曜日 | 火曜日 | 木曜日 | |
1965年11月9日 - 1969年8月28日 | 藤本義一 [表注 1] | (不在) | 安藤孝子 | |||
1969年9月2日 - 1970年8月27日 | 市川靖子 | |||||
1970年9月1日 - 1971年9月2日 | 笹田泉 | |||||
1971年9月7日 - 1976年10月28日 | 真理アンヌ | |||||
1976年11月2日 - 1977年10月27日 | 岸じゅんこ | |||||
1977年11月1日 - 1978年6月1日 | 多田千香 | |||||
1978年6月6日 - 12月28日 | 東てる美 | |||||
1979年1月4日 - 8月2日 | 横山エミー | |||||
1979年8月7日 - 1980年5月29日 | テレサ野田 | |||||
1980年6月3日 - 1981年4月2日 | 秋本圭子 | |||||
1981年4月7日 - 1985年3月28日 | 松居一代 | |||||
1985年4月2日 - 1988年3月31日 | 吉田由紀 | |||||
1988年4月5日 - 9月29日 | 桂べかこ | (不在) | (不在) | 遙洋子 | ||
1988年10月4日 - 1989年3月30日 | 池田裕子 | |||||
1989年4月4日 - 1990年3月29日 | 浦島三和子 |
『11PM』はNNN系列外の局でも放送された一方で、オイルショックの影響や内容の過激さ、他系列ネットなどを理由に打ち切った系列局も多く、特に『スポーツワイド・プロ野球ニュース』(FNN・FNS系)開始後は、そちらに切り替える局も現れた[注釈 14]。そのため1990年3月の終了時にフルネットで放送していた局はNNN16局と、他系列とのクロスネット局2局の18局にまで減少していた[注釈 15]。ここでは各地区での放送状況を取り上げた。
なお、後番組が『プロ野球ニュース』扱いとなる局には★を付けている。『プロ野球ニュース』の系列外ネットは1994年3月で終了[注釈 16][注釈 17]。
放送対象地域 | 放送局 | 放送期間 | 放送状況・備考 |
---|---|---|---|
関東広域圏 | 日本テレビ | 月曜日・水曜日・金曜日制作局 | |
近畿広域圏 | 読売テレビ | 火曜日・木曜日制作局 | |
中京広域圏 | 名古屋テレビ | 1973年3月打ち切り | 1972年6月から打ち切りまでは土曜日制作局[6][7] 変則クロスネット解消に伴う打ち切り。 |
中京テレビ | 1973年4月 - 1990年3月 | フルネット[注釈 18]。 | |
北海道 | 札幌テレビ | 1966年5月2日 - 1990年3月[22] | フルネット[注釈 18]。 |
青森県 | 青森放送 | 1967年11月1日[23] - 1977年9月30日[24][注釈 19] | NNN加盟局で最初に打ち切った。[要出典] 東日本地区では最初にネットを打ち切った[25]。 |
岩手県 | テレビ岩手 | 1969年12月 - 1990年3月 | フルネット[注釈 18]。 |
秋田県 | 秋田放送 | 1982年頃[いつ?]打ち切り[注釈 19] | |
山形県 | 山形放送 | 1966年6月1日 - 1978年3月31日[注釈 19] | |
宮城県 | 仙台放送 | 1966年10月3日 - 1970年9月30日[26] | 日本テレビ系新局開局に伴う放送局移行による打ち切り。 |
ミヤギテレビ | 1970年10月 - 1990年3月 | フルネット[注釈 18]。 | |
福島県 | 福島中央テレビ | 1971年10月1日 - 1990年3月 | フルネット[注釈 20]。 |
山梨県 | 山梨放送 | フルネット。 | |
新潟県 | 新潟総合テレビ (現在:NST新潟総合テレビ) | 1973年4月 - 1981年2月27日[28] | フルネット[29]。 日本テレビ系列新局開局に伴う放送局移行による打ち切り。 ★ |
テレビ新潟 | 1981年3月25日(サービス放送開始)[30] - 1990年3月 | フルネット[注釈 18]。 | |
長野県 | 信越放送 | 1975年4月 - 1980年9月 | 月曜日・金曜日のみ。 |
テレビ信州 | 1980年10月 - 1990年3月 | フルネット[注釈 18]。 | |
静岡県 | テレビ静岡 | 1972年4月 - 1976年3月[31] | ★ |
静岡けんみんテレビ (現在:静岡朝日テレビ) | 1978年7月 - 1979年6月 | 日本テレビ系列新局開局に伴う放送局移行による打ち切り。 | |
静岡第一テレビ | 1979年7月 - 1990年3月 | フルネット[注釈 18]。 | |
富山県 | 北日本放送 | 1988年4月8日放送分を最後に打ち切り[32][注釈 19] | ネット開始当初から1974年7月1日まではフルネット。 その後何度もネットする曜日が変動し、最終的には月曜日・水曜日・金曜日のみとなった。 |
石川県 | 北陸放送 | 1976年10月6日 - 1978年3月29日(水曜)[33] 1975年4月4日 - 1977年3月25日(金曜)[34] | 水曜日・金曜日のみ。 |
テレビ金沢 | 1990年3月のみ | サービス放送時のみ。 『11回忌法要スペシャル』はネット。 | |
福井県 | 福井放送 | フルネット。 1989年4月からはテレビ朝日とのクロスネット局。 | |
鳥取県・島根県 | 日本海テレビ | フルネット。 当初は鳥取県のみで放送、1972年9月の島根県への相互乗り入れで島根県でも放送開始。 | |
岡山県・香川県 | 西日本放送 | フルネット。 当初の免許エリアは香川県のみで、1983年4月の岡山県への相互乗り入れで岡山県でも放送開始。 | |
広島県 | 広島テレビ | 1966年4月 - 1990年3月 | フルネット。 年度により、ゴールデンタイムの差し替えが困難な9月下旬から10月頃は、ローカル版の『11PMナイター』として広島東洋カープ主催ゲームの録画中継に差し替える事があった。 |
山口県 | 山口放送 | 1967年5月1日[35] - 1978年3月末打ち切り[36][注釈 19] | ★[注釈 21] |
徳島県 | 四国放送 | 1969年[注釈 22][注釈 23] - 1980年7月までに打ち切り[38][注釈 24][注釈 19] | ★ |
愛媛県 | 南海放送(注) | 1984年4月 - 1990年3月[注釈 25] | フルネット。 |
高知県 | 高知放送 | 1980年代に打ち切り[注釈 19] | 月曜・水曜・金曜のみネット。 ★ |
福岡県 | 福岡放送 | 1969年4月 - 1990年3月 | フルネット。 |
長崎県 | テレビ長崎 | 1969年4月 - 1982年3月 | ★ 『11回忌法要スペシャル』は長崎国際テレビがネット。 |
熊本県 | テレビ熊本 | 1969年4月 - 1981年12月 | ★ |
くまもと県民テレビ | 1982年4月 - 1990年3月[注釈 18] | フルネット。 | |
大分県 | テレビ大分 | 1970年4月 - 1990年3月[注釈 18] | 金曜版は1985年9月打ち切り。 |
宮崎県 | テレビ宮崎 | 1970年4月 - 1981年9月[注釈 19] | ★ |
鹿児島県 | 鹿児島テレビ | 1969年4月 - 1990年3月 | 金曜版は1985年3月打ち切り。 『11回忌法要スペシャル』は鹿児島讀賣テレビがネット。 |
沖縄県 | 琉球放送 | 1975年4月 - 1983年3月 | 1977年4月 - 1979年9月の間はフルネット。 当初は月曜日 - 木曜日のみ放送。金曜深夜に放送されていた『新・必殺仕置人』を5話で打ち切りにした上でフルネットを開始。 『11回忌法要スペシャル』は沖縄県では未ネット。 |
11PM 11回忌法要スペシャル | |
---|---|
番組の生放送が行われた赤坂プリンスホテル | |
ジャンル | 特別番組 / 深夜番組 |
構成 | 浜田悠、長谷川勝士、小山薫堂、高橋洋二 |
総監督 | 神戸文彦、望月和雄 |
ディレクター | 加藤就一(日本テレビ)、千葉昭(ハウフルス) |
演出 | 菅原正豊(総合。ハウフルス)、小路丸哲也(えすと) |
出演者 |
徳光和夫 福澤朗 爆笑問題 大橋巨泉 愛川欽也 藤本義一 ほか |
ナレーター | 武田広、鷹西美佳(日本テレビアナウンサー) |
オープニング | 『11PMのテーマ』 |
エンディング | 同上 |
国・地域 | 日本 |
言語 | 日本語 |
製作 | |
チーフ・プロデューサー | 柏木登 |
プロデューサー | 笹尾光 |
編集 | 鈴木教全 |
制作 | ハウフルス |
製作 | 日本テレビ |
放送 | |
放送チャンネル | 日本テレビ系列 |
放送国・地域 | 日本 |
放送期間 | 1999年(平成11年)11月11日 |
放送時間 | 木曜 23:37 - 0:50 |
放送分 | 113分 |
回数 | 1回 |
特記事項: 制作協力:読売テレビ |
1999年(平成11年)11月11日、この日の日付に11が並んだこと、また終了からおよそ満10年(数えで11年)経ったことから『11PM 11回忌法要スペシャル』が、11月11日23:37 - 0:50[注釈 28]一夜限りでNNN30局[注釈 29]で放送され、大橋巨泉ら歴代の司会者をはじめ、番組にゆかりのある有名芸能人が一堂に会した。
番組内容は、11PM11回忌法要と銘打たれたパーティの中継で、赤坂プリンスホテルロイヤルホールのメイン会場は徳光和夫の司会進行で行われた。メインステージは祭壇を模しており、遺影の部分は番組のシンボルだった11時を指す懐中時計のオブジェで、位牌も作られており、「性楽院深夜拾壱開拓居士」と戒名まで記されていた。
巨泉や愛川、朝丘らがスタジオ形式でフリートークを行う会場入口前セットの進行は福澤朗で、当時日本テレビのアナウンサーだった福澤は巨泉から「給料制か。フリーになって、ウチの事務所(オーケープロダクション)に来い」とツッコまれていた[注釈 30]。番組の基本ベースは、番組の生い立ちを人の生涯に見立てた、過去のお宝映像を紹介するVTR企画とそれに沿ったフリートークで展開され、会場入口前セットでは爆笑問題が11PMの歴史を振り返るフリップ漫才などが行われたほか、メインステージでは、千堂あやかによるストリップショーが披露され、放送された。パーティの終盤には藤本義一を始めとする大阪イレブンの面々も駆けつけ、番組の最後に巨泉、愛川、藤本の3人がトークし、現在のテレビ番組に対して苦言を呈していた。
番組のメインスポンサーには当時と同じサントリー・トヨタ自動車・資生堂(「ご覧のスポンサー」扱い。なお表記は「アウスレーゼ」名義)が付き、番組名物だったサントリーの生CMも再現され、巨泉と松岡きっこがサントリーの商品を紹介、メイン会場のパーティでもサントリーのアルコール類で乾杯が行われた(CMのコピーは「サントリーのワインで21世紀を祝おう」)。
この11回忌法要スペシャルは、本放送当時の現役スタッフだった菅原正豊率いるハウフルスが制作を担当し、菅原も総合演出として参加した。なお、読売テレビは制作協力扱いで製作著作は日本テレビだった。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.