エレファンティネ・パピルス
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エレファンティネ・パピルス(Elephantine papyri)は、エジプトのエレファンティネ島およびアスワンの国境地帯の要塞から発見された175種の文書であり、ヒエラティックやデモティックで書かれたエジプト語、アラム語、ギリシア語コイネー、ラテン語、コプト語による1000年にわたる数百枚のパピルスからなる。文書の内容は手紙、家庭の法律的契約、その他の古記録であり、学者にとって書簡、法律、社会、宗教、言語、固有名詞などのさまざまな分野の知識の貴重な源泉になっている。
パピルスの最大の部分はアケメネス朝時代の「リングワ・フランカ」であったアラム語で書かれており、アケメネス朝によって支配された紀元前495-399年においてエレファンティネに駐屯したユダヤ人兵士のコミュニティーの文書である。
19世紀後半以降、現地の古物のグレーマーケットに流出し、いくつかの西洋のコレクションに分散した。1906年から1908年にかけて、考古学者オットー・ルーベンゾーン (de:Otto Rubensohn) とパピルス学者フリードリヒ・ツッカー (de:Friedrich Zucker) の率いるドイツの調査隊による考古学的調査が行われた[1]。
紀元前419年の「過ぎ越しの手紙」(1907年発見)は過ぎ越しの祭を適切に過ごすための詳細な指示を含み、現在はベルリンのエジプト博物館(英語版)が所蔵している。
ブルックリン美術館もエレファンティネ・パピルスを所蔵する。このブルックリン・パピルスの発見はそれ自身が注目に値する物語である。最初ニューヨークのジャーナリストだったチャールズ・エドウィン・ウィルバーが1893年に取得し、50年以上倉庫に眠っていた後、ブルックリン美術館のエジプト部門に届けられた。このとき学者ははじめて「ウィルバーが最初のエレファンティネ・パピルスを取得した」ことに気づいたのだった。