ジーコ
ブラジルのサッカー選手、監督 / ウィキペディア フリーな encyclopedia
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ジーコ(Zico、[ˈziku])ことアルトゥール・アントゥネス・コインブラ(葡: Arthur Antunes Coimbra、1953年3月3日 - )は、ブラジル・リオデジャネイロ出身の元プロサッカー選手、サッカー指導者。2018年7月からJリーグ・鹿島アントラーズのコーチ兼テクニカルディレクターを務める。
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イラク代表監督時代(2012年) | ||||||
名前 | ||||||
本名 |
アルトゥール・アントゥネス・コインブラ Arthur Antunes Coimbra | |||||
愛称 |
Galinho de Quintino(クインティーノのチキン) 白いペレ[1] | |||||
ラテン文字 | Zico | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | ブラジル | |||||
生年月日 | (1953-03-03) 1953年3月3日(71歳) | |||||
出身地 | リオデジャネイロ | |||||
身長 | 172cm[2] | |||||
体重 | 72kg[2] | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | MF | |||||
利き足 | 右足 | |||||
ユース | ||||||
1967-1971 | CRフラメンゴ | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1971-1983 | CRフラメンゴ | 635 | (476) | |||
1983-1985 | ウディネーゼ | 53 | (30) | |||
1985-1989 | CRフラメンゴ | 97 | (33) | |||
1991-1994 | 住友金属 / 鹿島アントラーズ | 64 | (48) | |||
代表歴 | ||||||
1976-1986[3] | ブラジル | 71 | (48) | |||
監督歴 | ||||||
1999 | 鹿島アントラーズ(代行) | |||||
2000-2002 | CFZ | |||||
2002-2006 | 日本代表 | |||||
2006-2008 | フェネルバフチェSK | |||||
2008 | FCブニョドコル | |||||
2009 | PFC CSKAモスクワ | |||||
2009-2010 | オリンピアコスFC | |||||
2011-2012 | イラク代表 | |||||
2013-2014 | アル・ガラファ | |||||
2014-2016 | FCゴア | |||||
2018-2021 | 鹿島アントラーズ(テクニカルディレクター) | |||||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
しばしば「白いペレ」と呼ばれることもあったが[4]、フリーキックの名手として知られ、多くの得点をフリーキックから挙げた[5]。最も技術のあるフィニッシャー、最も優れたパサーの一人、1980年代における世界最高の選手とも評される[6]。2004年3月には、ペレによる偉大な存命サッカー選手125人にも名を連ねた。サッカー史上最高の選手と評されるペレは、「今までの間、私に最も近づいたのはジーコだった」と述べた[7]。キャリア通算では、公式戦750試合516ゴール、親善試合などの非公式戦も含めれば、1180試合826ゴールを決めている[5]。
うち、ブラジルで在籍したCRフラメンゴでは2度の在籍期間(1971-1983・1985-1989)を合わせて同クラブ史上最多の509ゴールを記録。また、同クラブ本拠地のマラカナンでは通算史上最多の435試合334ゴールを達成している。
ブラジル代表では、72試合に出場し52ゴールを挙げており、FIFAワールドカップでは1978年、1982年、1986年の3大会に出場した。これらの大会では優勝を逃したが、1982年のブラジル代表は最も優れたブラジル代表の一つと言われている[8]。1981年と1983年に、雑誌「ワールドサッカー」は、世界最優秀選手に選んだ。
日本代表監督として2006 FIFAワールドカップに出場し、AFCアジアカップ2004では優勝を果たした。また、フェネルバフチェSKを指揮し、UEFAチャンピオンズリーグ 2007-08で準々決勝に進出した。