タラスカ王国
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タラスカ王国(Tarasca)またはタラスコ王国(西:Estado Tarasco)、プレペチャ王国(西:Estado Purépecha)とは、今日のメキシコのミチョアカン州全域およびハリスコ州とグアナフアト州の一部にあたる地域を領有した、先コロンブス期の国家であり、スペイン人による侵略の時点でメソアメリカにおいて2番目の大国だった。[1]
タラスカ王国 | |||||
Iréchecua Tzintzuntzáni | |||||
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首都 | ツィンツンツァン | ||||
言語 | プレペチャ語 | ||||
政府 | 君主国 | ||||
カソンシ | |||||
• | 1300-1350年(初代) | タリアクリ | |||
• | 1520–1530年(末代) | タンガシュアン2世 | |||
歴史 | |||||
• | 創立 | 1300年頃 | |||
• | 征服 | 1530年 | |||
面積 | 75,000 km² (28,958 sq mi) | ||||
現在 | メキシコ | ||||
14世紀初めに建国され、1530年にスペインに征服された。1543年には公式にミチョアカンの知事の支配下となった。なおミチョアカン(Michoacán)というのはナワトル語でのタラスカ王国の名前で、「魚の多い場所」を意味する。タラスカ王国で話されていた言語であるプレペチャ語ではIréchecua Tzintzuntzániと呼ばれ、「ツィンツンツァン王国」という意味になる。
タラスカ王国の民の多くはプレペチャ族に属していたが、その他にナワ族、オトミ族、マトラツィンカ族(スペイン語版、英語版)、チチメカ族がいた。これらの民族集団は次第に多数民族であるプレペチャ族に同化されていった。
タラスカ王国は貢納システムによって構成され、カソンシ(英語版)とよばれる支配者のもと次第に中央集権化していった。タラスカ王国の首都はミチョアカン州のパツクアロ湖(英語版)の畔にあるツィンツンツァンであり、口承によるとそれを創立したのは初代のカソンシであるタリアクリで、ワクセチャ(Uacúsecha、プレペチャ語で「鷹」)という彼の家系によって治められたという。
タラスカ王国はアステカ帝国と同時期に存在し、敵国として多くの戦争を行った。タラスカ王国は、メソアメリカ最初の真の領域国家として拡大したアステカとの国境の防備を固め、その北西への拡大を妨げた。
メソアメリカの中では比較的孤立していたため、タラスカ王国にはメソアメリカの他の文化グループにはないはっきりと異なった文化的特徴を多く有する。特に、金属を道具や装飾品だけでなく武器にまで使用していた事はメソアメリカ文明の中でも珍しい。[2]