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日本のお笑いグループ (1985-) ウィキペディアから
ダチョウ倶楽部(ダチョウくらぶ)は、太田プロダクションに所属する肥後克広・寺門ジモン・上島竜兵からなる日本のお笑いトリオ。カルテットで活動していた時期もある。計算し尽くされたリアクション芸や「ヤー!」「聞いてないよォ」などのギャグ、「ムッシュムラムラ」など同じ言葉を連呼するギャグ、物真似などを持ち合わせ、しかも大半の芸は応用が利くのが特徴。特に上島は出川哲朗と並んで、リアクション芸人の代表格であった。
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ダチョウ倶楽部 | |
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2015年4月4日、横浜スタジアムにて撮影。左から上島、寺門、肥後。 | |
メンバー |
肥後克広 寺門ジモン 死去したメンバー 上島竜兵 元メンバー 南部寅太(元リーダー[1]) |
別名 | ダチョウ |
結成年 | 1985年 |
事務所 | 太田プロダクション |
活動時期 | 1985年 - |
師匠 | 杉兵助(肥後) |
出身 |
道頓堀劇場(肥後) テアトル・エコー養成所(寺門、上島) |
出会い | 渡辺正行の紹介 |
旧グループ名 | キムチ倶楽部 |
現在の活動状況 | テレビ |
芸種 | リアクション芸、コント、ものまね |
ネタ作成者 | 肥後克広 |
現在の代表番組 | 爆笑そっくりものまね紅白歌合戦スペシャル |
過去の代表番組 |
天才てれびくん スーパージョッキー 王道バラエティ つかみはOK! 志村けんのバカ殿様 |
同期 |
ウッチャンナンチャン 中山秀征 出川哲朗 シルク 今田耕司 130R リットン調査団他 |
公式サイト |
公式プロフィール ダチョウ倶楽部オフィシャルブログ |
受賞歴 | |
1987年 第15回日本放送演芸大賞 ホープ賞 1993年 第31回ゴールデン・アロー賞芸能賞 |
2022年5月11日、上島が死去したため、以後は肥後・寺門の2人で活動している。
肥後は商業デザイナーから転身して、コメディアンの杉兵助に弟子入りし、渋谷道頓堀劇場にてお笑い芸人として活動しており、ジモンと上島は劇団テアトル・エコー附属養成所に所属する役者志望だった。彼らが知り合ったのはテアトル・エコーの先輩・渡辺正行の紹介である。
3人はコント赤信号の劇団員として活動後、多人数のコントグループ「キムチ倶楽部」として活動[3]。「俱楽部」は当時流行っていたおニャン子クラブになぞらえたものである。キムチ倶楽部には20 - 30人のメンバーがおり俳優の近藤芳正なども在籍していた[4]。当時渡辺正行が立ち上げた第1回のラ・ママ新人コント大会に出場する事になっていたがすっかり忘れており、直前に連絡のついた現メンバー3人と南部寅太(現:南部虎弾)で参加する事になった。それが成功した事でそのメンバーでの活動が増え、改めて4人で「ダチョウ倶楽部」(諸事情により1985年にキムチ俱楽部から改称)を結成した[5][6]。初代リーダーは南部だったが、1987年に彼が脱退して電撃ネットワークを結成したため3人編成となる[6]。
南部脱退の理由について、しばらくは4人とも明確に語ろうとしなかったが徐々に明かすようになり、「南部が深夜上島に電話して『ビー玉飲めるか?』と尋ねたのに対して、出来ないと上島が拒んだところ、仲たがいになり南部が脱退した」と上島が語り、南部本人は「事前に根回しせず勝手に毒舌を吐くなど自分の独断行動に3人が付いていけなくなり、結果としてクビになった」と説明[7]。いわゆる芸風や方向性の違いによるものだった。
南部脱退後、事務所の指示で(戸籍上は)最年少ながら一番背の高い肥後がリーダーとなった(実際の最年少は寺門、詳細は肥後克広を参照)。フロントマン兼リーダーの南部脱退により、当時太田プロに在籍していた芸人の間では南部なしのダチョウ倶楽部の行く先が危ぶまれたという。その後ショーパブ、ライブなど経て、お笑い第三世代ブームでブレイクするが、ネタ番組では1本ネタはさせてもらえず、ショートコントばかりという扱いだった。しかし、「ビートたけしのお笑いウルトラクイズ」(以下、「お笑いウルトラクイズ」と略す)にて、後述するような独特な芸風(リアクション芸)を生かし、再ブレイクする。かつてのネタでは、上島がツッコミ役だったが、笑福亭笑瓶の助言により、ボケ役に回った。
1993年10月、初めてゴールデンタイムで『王道バラエティ つかみはOK!』のメイン司会を担当するが、視聴者から抗議が殺到し(特に上島のドリカム吉田美和のモノマネは大顰蹙を買った)、視聴率も苦戦したことから半年で終了。
1994年、『24時間テレビ』にて、チャリティーマラソンのランナーを3人で担当。
1995年、『ダチョーン倶楽部』内の上島企画「目指せ! ヒット曲」において、Club D名義でシングルCDを1枚リリースした。
2006年、CS放送テレ朝チャンネルにて『ダチョ・リブレ』が放送開始。「竜兵会」「ネイチャージモン」の2部構成。「竜兵上島のオチのない話」などオリジナル企画を放送。
2022年5月11日、メンバーの上島が死去、61歳没。上島の没後もダチョウ倶楽部は解散しないことを肥後が追悼文にて明言し、2人で活動継続することを発表した[8]。
2024年1月20日、初代リーダーで元メンバーの南部虎弾が脳卒中のため都内の病院で急逝。
計算された3人のコンビネーションで見せる芸が多く、内容はウケる・ウケないではなく、マンネリの美学の伝統芸とされる。リアクション芸は、ノリだけで行っているように見える裏側に「リアクションの際はカメラを凝視する」「限界の状況でも常に安全を確認、かつ最低限のマージンを取って芸に臨む」など緻密に計算されている。「一見つまらないようなギャグでも3人で行うと迫力があって面白く感じる」とも語っている。『アメトーーク』出演時のリアクション芸人講座など自分たちの芸について語る機会があると、リアクションシーン直前にカメラに写りこまない部分で行う準備・リアクション中の様々なテクニック・流れるようなフォーメーションを随所に織り込んでいることを解説している。
ギャグトークの展開が読めることを逆手にとり、オチを始める直前にメンバー以外の他者から「例の“キス”だろ?」などとツッコまれ、ギャグ不成立で「笑い」を誘う事例も見られる。特に有吉弘行などが使用する。
2020年以降は新型コロナウイルス感染症拡大の影響により、「密」状態の回避が難しい熱湯風呂・キス芸・熱々おでん、など得意とするギャグは自粛している。後記のキス芸のように一部対策して継続する場合もある[11]。
上島死去後、肥後・寺門の2名体制になったが、下記のギャグはそのまま引き継いだ。また、第三者を上島役にしてボケさせるパターンも生まれている。
※ダチョウ倶楽部としての出演番組を記載。個別での出演番組は肥後克広、寺門ジモン、上島竜兵を参照。
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