ヘンリー・ペティ=フィッツモーリス (第3代ランズダウン侯爵)
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第3代ランズダウン侯爵ヘンリー・ペティ=フィッツモーリス(英: Henry Petty-Fitzmaurice, 3rd Marquess of Lansdowne, KG, PC, FRS、1780年7月2日 - 1863年1月31日)は、イギリスの政治家、貴族。
概要 生年月日, 出生地 ...
第3代ランズダウン侯爵 ヘンリー・ペティ=フィッツモーリス Henry Petty-Fitzmaurice, 3rd Marquess of Lansdowne | |
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3代ランズダウン侯(ヘンリー・ウォルトン(英語版)画) | |
生年月日 | 1780年7月2日 |
出生地 | グレートブリテン王国、イングランド、ロンドン、ランズダウン・ハウス(英語版) |
没年月日 | 1863年1月31日 (満82歳没) |
死没地 | イギリス、イングランド、ウィルトシャー、ボーウッド・ハウス(英語版) |
出身校 | ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ |
所属政党 | ホイッグ党 |
称号 | 第3代ランズダウン侯爵、第4代シェルバーン伯爵、第4代ケリー伯爵、第22代ケリー男爵、ガーター勲章ナイト(KG)、枢密顧問官(PC)、王立協会フェロー(FRS) |
配偶者 | ルイーザ・エマ |
親族 |
初代ランズダウン侯爵(父) 第4代ランズダウン侯爵(次男) 第5代ランズダウン侯爵(孫) |
内閣 | グレンヴィル内閣 |
在任期間 | 1806年2月5日 - 1807年3月26日 |
内閣 |
カニング内閣 ゴドリッチ子爵内閣 |
在任期間 | 1827年7月16日 - 1828年1月22日 |
内閣 |
グレイ伯爵内閣、第一次メルバーン子爵内閣 第二次メルバーン子爵内閣 第一次ジョン・ラッセル卿内閣 |
在任期間 |
1830年11月22日 - 1834年11月14日 1835年4月23日 -1841年9月3日 1846年7月6日 - 1852年2月27日 |
庶民院議員 | |
選挙区 |
カルネ選挙区(英語版) ケンブリッジ大学選挙区(英語版) キャメルフォード選挙区(英語版)[1] |
在任期間 |
1802年7月7日 - 1806年2月17日 1806年2月17日 - 1807年5月8日 1807年5月11日 - 1810年2月2日[1] |
貴族院議員 | |
在任期間 | 1809年11月15日 - 1863年1月31日[1] |
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首相を務めた初代ランズダウン侯爵ウィリアム・ペティの次男。1802年に庶民院議員に当選して政界入り。1809年に兄ジョン・ペティから爵位を継承して貴族院議員に転じる。ホイッグ党内の穏健派閥の指導者として、ホイッグとトーリーの党派対立が曖昧になりがちだった19世紀前期から中期のイギリス政界で超党派的な貴族院指導者として重きをなし、トーリー党自由主義派やホイッグ党の政権において財務大臣(在職1806年-1807年)、内務大臣(在職1827年-1828年)や枢密院議長(在職1830年-1834年、1835年-1841年、1846年-1852年)などの閣僚職を歴任した。ヴィクトリア女王からも信頼され、政治危機のたびに元老として様々な諮問を受けた。
父が侯爵に叙せられた1784年から兄から爵位を継承する1809年までは侯爵のヤンガーサンとして卿(Lord)の儀礼称号で称された。
20世紀初頭に外務大臣を務めた第5代ランズダウン侯爵ヘンリー・ペティ=フィッツモーリスは孫にあたる。