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ロシア出身の日本のプロ野球選手 (1916-1957) ウィキペディアから
ヴィクトル・コンスタンチーノヴィチ・スタルヒン(ロシア語: Виктор Константинович Старухин, ラテン文字転写: Viktor Konstantinovič Starukhin; 英語: Victor Starffin、1916年5月1日 - 1957年1月12日)は、昭和期前半のプロ野球選手(投手)。ロシア帝国生まれ、北海道育ち。戦時中に、須田 博(すだ ひろし)に改名した。
東京巨人軍時代 | |
基本情報 | |
---|---|
国籍 | 無国籍 |
出身地 | ロシア帝国・ペルミ県ニジニ・タギル |
生年月日 | 1916年5月1日 |
没年月日 | 1957年1月12日(40歳没) |
身長 体重 |
191 cm 90 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 1934年 |
初出場 | 1936年7月3日 |
最終出場 | 1955年10月8日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
| |
野球殿堂(日本) | |
選出年 | 1960年 |
選出方法 | 競技者表彰 |
この表について
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沢村栄治と並ぶ日本プロ野球黎明期の大投手で、長身からの角度のある豪速球のスピードは沢村とも並び称された。巨人軍の第一期黄金時代の中心投手として活躍し、1937年春から1940年まで5シーズン連続で最多勝利を獲得。特に1939年の42勝はNPBタイ記録として残る。第二次世界大戦の戦局悪化に伴い、1940年9月から1944年の間は須田 博の登録名で出場していた[1]。
戦後は、恩師・藤本定義とともにチームを転々とし、1955年にNPB史上初の通算300勝を達成して引退。通算83完封はNPB記録。1957年に旭川中学の同窓会に向かう途中に交通事故で死去。1960年野球殿堂入り(初の競技者表彰)。
1916年に帝政時代のロシアのニジニ・タギルに、ロマノフ王朝の将校・父コンスタンチンと母エウドキアの一人息子として誕生。
1917年のロシア革命の際、一族の中に王党派がいたため、革命政府(共産主義政府)から迫害される。一家は革命軍に追われながらウラル山脈から広大なシベリアを横断し、国境を越えて日本の支配下にあった満洲のハルビンまで逃げ延びた。1925年に日本に亡命するが、日本への入国に必要な大金を母が隠し持っていた宝石でなんとか支払い、北海道の旭川市へ入った。日本では無国籍の「白系ロシア人」となる。子どもの頃の愛称はウィジャー[2]。
旭川市立日章小学校へ入学。当時は白人が珍しかったこともあり、周囲からはいじめに遭うこともあった。しかし、成績優秀かつ運動神経も抜群で、徒競走では20 m後ろからスタートさせられても一等になるほどだった。大正から昭和にかけて全国的にも少年野球は盛んであり、スタルヒンも学校のチームで活躍した。なお、尋常小学校5年生で既に180 cmを超えていたため、大きすぎるとして高等小学校のチームに入れられていた[3]。
旧制旭川中学校(のちの北海道旭川東高等学校)に入学し、野球部に入る。かつて高等小学校のチームに入れられ、級友とは野球ができなかったことから、野球部入部時の第一声は「本当にみんなと一緒に野球をやっていいの」だったという[3]。中学では剛速球投手として鳴らし、全国中等学校優勝野球大会の北海道大会では2年連続(1933年、1934年)で決勝に進んだが、味方のエラー等により惜敗し、夏の甲子園にはあと一歩届かなかった。
旧制中学1年の時、父親が自らの経営していた喫茶店「バイカル」の従業員に対する殺人事件を起こし、懲役8年の有罪判決を受けて収監された。「殺人者の息子」となったものの、既に旭川中学校の投手として有名だったスタルヒン本人には同情が集まった[注 1]。
スタルヒンはこの事件の為に経済的に追い込まれ、旧制中学の授業料や生活費すら同級生らによるカンパに頼るほど生活に困窮するようになり[4]、日本国籍を取得できない遠因の一つにもなっていた。当初は早稲田大学に進学することを希望していたものの、経済的に困窮したこともあり、大学への進学は難しい状況になっていた。
旧制中学3年生の1934年11月25日、当時日米野球のため来日していたアメリカ・大リーグ選抜チームと対戦する全日本チームに半ば強引に引き抜かれそうになる。前年の日米野球で17戦全敗を喫し、その年も開始から5連敗を喫していた全日本監督の市岡忠男にとって、先ず1勝を挙げるという至上命令のための「怪投手」引き抜きというアイデアであった。
プロ野球が誕生しておらず、野球人気は六大学のアマチュアが支えていた当時、文部省は「学生野球の選手をプロ球団と戦わせてはならない」と通達したため、全日本チームを母体として主催の読売新聞は職業野球団「大日本東京野球倶楽部」を結成。京都商業の沢村栄治を中退させたのと同様の手口でスタルヒンを退学させてチーム(後の読売巨人軍)に入れるため、旭川にスカウトを送るものの、地元のスターを引き抜かれることに旭川市民と学校側は抵抗した[5]。
旭川中学校を甲子園へ出場させるという願いを持っていたスタルヒン本人にとっては苦渋の決断であったが、先述の経済事情に加え、さらには亡命者であるだけに断れば家族全員国外追放、即ちソビエト連邦への強制送還とする可能性をほのめかされたという事情もあり、断るわけにもいかず、旭川中を中退。後ろ髪を引かれる思いで母と共に上京した。クラスメートには一切事情を知らせないまま夜逃げをするように列車に乗ったという。汽笛が「行くなぁ!」という仲間達の叫びに聞こえた、と後年妻に語っている[4]。
中学中退と全日本チーム、そして巨人入団への背後には日米戦を主催していた読売新聞オーナー・正力松太郎の意思があり、スタルヒンがこれに従わねばならなかったのは、「読売買収以前は警視庁の実力者だった正力が、父の犯罪歴をたてに日本国籍のないスタルヒン一家を恫喝したからである」と作家の佐野眞一は著書[6]の中で断言している。
日米野球の17戦に初登板し、3番手として1イニングを無安打無失点に抑える。しかし試合はすでに趨勢が決まっていて、スタルヒンの制球の悪さに、米国チームが逃げ腰であった結果だった[7]。
1934年11月29日に埼玉県営大宮公園野球場で開催された同第17戦の8回から敗戦処理で2イニングを投げ、これがプロ野球選手としてのデビューとなった。1935年2月からのアメリカ遠征に参加することになるが、ここで右翼の大物である玄洋社の頭山満から干渉を受け、すんなりとは決まらなかった[8]。さらに、無国籍だったためパスポートが支給されず、出国の際に警視庁から「国外に行ってよい」との許可証をもらっただけであった。サンフランシスコに到着しても、パスポートがないためビザが下りずに入国できず、無許可の移民と見做されて危うく収容所に送られそうになったところ[9]、フランク・オドールらが奔走してようやく入国の運びとなった。また、日本の小学校に通学していた田舎者の少年であったスタルヒンは水原茂と同部屋になった際、自らも白人であるにもかかわらず「先輩、アメリカって外国人ばかりですね」「外国人って全然、日本語喋らないんですね」と感想を漏らし、水原を呆れさせたという[5]。
1936年にそのまま大日本東京野球倶楽部の後身である東京巨人軍に入団。7月3日の大東京戦に救援登板し、3イニングを無失点に抑えて巨人の公式戦初勝利に貢献した(2019年現在のルールではセーブの対象)[10]。
スタルヒンは試合では速球は良いものの、当初は制球が悪く、四球が多かった。そのため水原などベテラン勢や先輩たちは「トウシロウ!」「アホ」「どこ見て放ってんだ!」と代わる代わる怒鳴りつけた。繊細であったといわれるスタルヒンは傷ついたり落ち込んだりし、涙を流しながら「このままじゃ怖くて投げられません」と監督に訴え、目を腫らしながらマウンドに立ち続けたという[5]。しかし当時、巨人の監督に就任した藤本定義によって励まされ、猛練習によって制球力を身につける[7]。翌1937年春季リーグでは、7月3日の対イーグルス戦で史上2人目のノーヒットノーランを達成するなど13勝すると、秋季リーグでは15勝を挙げて最多勝利のタイトルを獲得し沢村栄治に代わってエースに台頭する。
1938年も春季14勝で最多勝利となると、秋季は19勝、防御率1.05、146奪三振、勝率.905、7完封で投手五冠[11]を達成する。1939年にはチーム41試合目の6月20日の対ライオン軍戦で早くも20勝に到達する[12]。シーズンでは、日本プロ野球記録となるシーズン42勝(戦後の一時期スコアブックの見直しにより40勝とされていた。後述)と、チームの勝利数66勝の2/3を記録しMVPに輝いた。同年にはプロ野球史上初の通算100勝を達成している。165試合目での到達は2019年現在も破られていない史上最速記録である。さらにこの年シーズン4本のサヨナラ安打を放っているが、これは1969年に大杉勝男に破られるまで日本プロ野球記録であった[13]。1940年にも38勝を挙げて2年連続で最高殊勲選手・最多勝利に選ばれるが、5シーズン連続の最多勝利も日本プロ野球最長記録となっている。
この間、1939年に大規模な軍事衝突(ノモンハン事件)が起こるなど、日ソ間の関係が悪化したことから、スタルヒンは軍部からスパイの容疑を受ける。スタルヒンは軍部に呼び出され、以下の指示を受けたという[14]。
この状況下で、職業野球のエースであるスタルヒンが憲兵に潰されてしまうことを懸念した名古屋金鯱軍代表の赤嶺昌志の勧めにより、1940年に須田 博(すだ ひろし)に改名した[14]。一方で、スタルヒンは無国籍者だったため徴兵されることはなかった。
1941年は7月14日の対南海戦で40度を超える高熱を押して登板し15勝目を挙げるが、そのまま病院に運ばれると肋膜炎と診断され、戦列を離れる。一時は生死の境をさまよい、たとえ命が助かっても野球選手としての再起は難しいと医師から宣告されたという[15]。翌1942年4月末より復帰して26勝を挙げる。1943年も5月半ばまでに6勝を重ねるが、肋膜炎を再発させて再び戦列を離れ[16]、10月になってようやく復帰して10勝に到達した。1944年は開幕から6月迄に無傷の6連勝を飾るが、7月以降国籍を理由に出場できなくなる。
さらに、11月にはスタルヒンは無国籍者ながら「外国籍者」として、ほかの外国籍者同様に軽井沢へ転居させられた。これは首都圏に在住したほとんどの外国籍者に与えられた措置であった。なお、プロ野球公式記録上は「病気のため隔離」されたことになっている。軽井沢では靴直しをして暮らしていたともされる[2]。さらに1945年8月9日に中立国であったソビエト連邦が日ソ中立条約を破り日本に侵略を開始したことから、追放処分にされる。
終戦後の1946年にスタルヒンは通訳として進駐軍のジープに乗っていたところ、偶然、パシフィック監督を務めていた藤本定義と再会したことで、巨人軍の誘いを断ってパシフィックに復帰[2]。しかし、野球を離れていたスタルヒンは別人のように太っており、練習を始めてもなかなか体型が元に戻らなかった[17]。同年10月13日のゴールドスター戦に戦後初登板を果たすと、10月20日のゴールドスター戦で完投勝利を挙げ、日本プロ野球初の通算200勝を達成した。
1948年に藤本が金星スターズの監督に転身すると、スタルヒンはバッテリーを組んでいた伊勢川真澄とともに藤本に従って金星に移籍した。1949年には27勝を挙げて9年ぶりに最多勝利のタイトルを獲得している。ただ戦前のような体のキレはなく、以前の速球派から変化球主体の老獪なピッチングに変わり、派手なジェスチャーの多いショーマンタイプの上手にかわすスタイルになっていったという。
この間、1952年6月15日の対毎日オリオンズ戦では、2本塁打を放ち完投するも味方の援護がなく、2-3で敗戦投手となっている[18]。
1954年には高橋ユニオンズに移籍する。この時は慕っていた藤本と一緒ではなく、藤本に「高橋は契約金をくれる。もう長くはできないだろうからもらっておけ」と勧められたからだった。後に、このお金を元に、美容院と薬局を経営する[7]。シーズン前には相当に肥満して「まるで相撲取りのようだ」と言われ[19]、7月まで2勝7敗と調子が上がらなかった。8月以降は6勝6敗と盛り返し、バックが弱い中でシーズンでは何とか8勝(13敗)を重ねた。
1955年春の岡山キャンプでは「痩せること」を課題に取り組み、村社講平臨時コーチの指導を受けて苦手だった走り込みを徹底的に行い、体重を32貫(120 kg)から26貫(97.5 kg)まで落とす減量に成功する[20]。シーズンが始まると、スタルヒンの3連敗を含めて高橋は開幕12連敗を喫するが、4月13日の対大映スターズ戦でチームの初勝利を現役最後となる83個目の完封勝利で飾った。9月4日の対大映戦(西京極)で史上初の通算300勝を完投勝利で達成したが、後になって1939年の記録を当初の公式記録通りに戻したため、同年7月30日に開かれた近鉄パールス戦(川崎球場)での勝利が300勝となる。節目となる100勝目・200勝目・300勝目をすべて異なるチームで記録しており、これは6人いる300勝以上の投手(他に金田正一・米田哲也・小山正明・鈴木啓示・別所毅彦)の中では唯一である[注 2]。
試合後のインタビューでは「若林さん(若林忠志)も42までやったし、僕もまだ続けたい」と意気込みを語っており、日本経済新聞にも「私もあと5〜6年は放るつもりだ。目標は三振2000個と、シャットアウト勝、100勝である」との手記を載せている[21]。太平洋野球連盟からは報奨金5万円が渡されたが、公式な表彰行事は行われず、これを不憫に感じた球団オーナーの高橋龍太郎自ら記念祝賀会を主催している[22]。
同年限りで現役引退。この年チーム2位の7勝(21敗)を稼ぎ本人も現役続行を希望したが、翌年からの監督就任が決まった笠原和夫がアンチ笠原派と言われていたスタルヒンを解雇したとも言われる[23]。最後は無給でもいいから巨人で投げたいと希望したともされるが、その願いは叶わなかった[24]。また、同年には慕っていた母親・エフドキアを亡くしている。引退後のスタルヒンはいつもどこか寂しげだったという[25]。
引退後は「ボールボーイでもいいから」と野球に関わる仕事を希望したが、それは叶わず、妻・タ-ニャが経営する美容室の手伝いをしていた[26]。
1957年1月12日22時40分頃、都内で行われた中学校の同窓会に出席するため、自宅のある港区南青山から自身の車(1941年式[27][注 3]シボレー・スペシャル・デラックス[28]2ドアクーペ[29])で世田谷区三宿にある国道246号(玉川通り)を走っていた。しかし、東急玉川線三宿駅[注 4]付近で、前の車を追い越そうとして二子玉川園行き電車と衝突。車は大破し、スタルヒンは救急車で国立世田谷病院に搬送されるが、到着前に死亡。40歳没。警察から、事故の原因は泥酔運転および速度の出し過ぎと発表された[30]。
友人の証言によれば、スタルヒンは同窓会の会場と逆方向へ車を走らせている上、乗っていた同窓生を車から降ろし、電車で行くように指示しているなどしており、いささか不可解な死として伝わる。その直前には友人が経営する青山のボウリング場の開場式典に出席、飲酒しており、泥酔状態ではなかったが飲酒運転だったという。
1月20日に非公式ながらプロ野球初となる「野球葬」が行われる。葬儀に先立って霊前追悼座談会が行われ、生前スタルヒンと交流があった葬儀委員長・市岡忠男を中心に、戦前から戦後にかけて長く行動をともにした藤本定義、巨人からは鈴木惣太郎・水原円裕・川上哲治、高橋からは前監督の浜崎真二、ほかに小西得郎が参加した[26]。
スタルヒンは、父コンスタンチンの死に際して自らが建立した多磨霊園の外国人墓地(外国人区1種2側)に埋葬された[31]。 1989年、三十三回忌の命日にあたり長女ナターシャによって、1971年に亡くなった妻ターニャ(高橋久仁恵)の実家でありターニャの墓がある秋田県横手市雄物川町の崇念寺に分骨された[32]。 亡命から最期まで無国籍だった。
1960年にはスタルヒンの功績を称え、その前年に創設された野球殿堂の史上最初の競技者表彰に選出された[33]。旭川市民にとってスタルヒンは伝説的な英雄で、1984年に改修工事が完成した旭川市営球場には愛称「スタルヒン球場」が命名された。球場正面にはスタルヒンの銅像が建立されている[注 5]。
プロ野球草創期の豪速球投手として、沢村栄治と比べられることが多く、両者と対決した選手からは「スピードはほぼ同じ。沢村の方がバッターの手元へ来て伸びていたから、感覚的には沢村の方が速く見えた」との意見が多かったとされる。一方で191cmの長身からさらに伸び上がって投げ下ろすことから、打者からは「二階の屋根からボールが急降下してくるようで打ちにくい」と評された[34]。
投手としての球種はドロップ・シュート・シンカー[35]。速球投手にしては打者との駆け引きが巧みで、豪速球を軸にシュートとドロップで緩急をつけ、時にはシンカーで内野ゴロを稼ぐ投球を得意とした。たまに長い間合いからクイックで投げたり、サイドから投げたりもしていた。晩年には揺れながら落ちるフォークかナックルのような変化をする「アベックボール」も投げていた[36]。
打撃にも優れ、1939年にサヨナラ安打4回、1940年に1試合5安打、1955年には代打で登場するも敬遠四球の記録を残している。初球打ちの癖があったため、相手投手は初球をボール気味に外してきたが、長身で腕力のあったスタルヒンは、少しくらいのボール球でも強引に引っ張って安打にしたという[37]。
流暢な日本語を喋り、義理人情も重んじて「日本人より日本人らしい」と言われていたが、「外人」や「亡命者」というレッテルで仲間も決して一線を越えてくれないことに悩んでいたという。そのため白系ロシア人の集まる御茶ノ水の「ニコライ堂」に通い詰めて友達を探し、花嫁まで見つけた[5]。
1939年の勝利数は42勝であるが、戦後パ・リーグ記録部長の山内以九士らが戦前のスコアブックの見直しを行った際に、明らかにスタルヒンに勝利が付かないケースとなる2試合(5月9日:対名古屋戦、7月15日:対セネタース戦)があった。いずれも中尾輝三が先発し、5イニング以上投げて巨人がリードした状態で退いた後をスタルヒンがリリーフして最後まで投げ、そのままリードを守りきって巨人が勝った試合である。これらについて記録の変更を行い、40勝とされた。戦前は勝利投手の認定に曖昧な部分があり、記録員の主観で判断されていた側面があったためである。実際に当時の公式記録員であった広瀬謙三は「救援投手に重きを置いて(勝利投手、敗戦投手の記録を)つけた記憶がある」と証言している。
しかし、スタルヒン没後の1961年に稲尾和久がシーズン最多勝利でこのスタルヒンの記録を破る42勝を記録したことから、戦前のスコアの修正について再び議論が起き、最終的には1962年3月30日にコミッショナー裁定が出され「あとから見ておかしなものであっても、当時の公式記録員の判断は尊重されるべき」という理由でもとの42勝に戻された。その結果、稲尾の記録はスタルヒンと並ぶタイ記録となった[55]。
なお、42勝のうち4勝は自らのサヨナラ安打によるものである。このシーズン4サヨナラ安打は1969年に東映フライヤーズの大杉勝男が更新するまで30年にわたってプロ野球記録だった。11月9日、巨人が優勝を決めた試合もスタルヒンのサヨナラヒットでの勝利だった。
年 度 | 球 団 | 登 板 | 先 発 | 完 投 | 完 封 | 無 四 球 | 勝 利 | 敗 戦 | セ 丨 ブ | ホ 丨 ル ド | 勝 率 | 打 者 | 投 球 回 | 被 安 打 | 被 本 塁 打 | 与 四 球 | 敬 遠 | 与 死 球 | 奪 三 振 | 暴 投 | ボ 丨 ク | 失 点 | 自 責 点 | 防 御 率 | W H I P |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1936夏 | 巨人 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | -- | ---- | 14 | 3.0 | 3 | 0 | 1 | -- | 0 | 4 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0.00 | 1.33 |
1936秋 | 3 | 3 | 2 | 0 | 0 | 1 | 2 | -- | -- | .333 | 89 | 21.0 | 17 | 0 | 7 | -- | 0 | 19 | 0 | 0 | 10 | 7 | 3.00 | 1.14 | |
1937春 | 25 | 16 | 10 | 3 | 0 | 13 | 4 | -- | -- | .765 | 592 | 147.1 | 100 | 1 | 58 | -- | 1 | 92 | 2 | 0 | 34 | 25 | 1.53 | 1.07 | |
1937秋 | 26 | 18 | 13 | 4 | 1 | 15 | 7 | -- | -- | .682 | 658 | 164.2 | 115 | 0 | 51 | -- | 2 | 95 | 2 | 0 | 53 | 34 | 1.86 | 1.01 | |
1938春 | 24 | 16 | 13 | 5 | 2 | 14 | 3 | -- | -- | .824 | 639 | 158.2 | 106 | 5 | 57 | -- | 2 | 76 | 1 | 0 | 42 | 36 | 2.04 | 1.03 | |
1938秋 | 24 | 19 | 17 | 7 | 1 | 19 | 2 | -- | -- | .905 | 765 | 197.2 | 111 | 0 | 59 | -- | 1 | 146 | 1 | 1 | 32 | 23 | 1.05 | 0.86 | |
1939 | 68 | 41 | 38 | 10 | 1 | 42 | 15 | -- | -- | .737 | 1838 | 458.1 | 316 | 4 | 156 | -- | 11 | 282 | 6 | 0 | 114 | 88 | 1.73 | 1.03 | |
1940 | 55 | 42 | 41 | 16 | 2 | 38 | 12 | -- | -- | .760 | 1688 | 436.0 | 241 | 3 | 145 | -- | 4 | 245 | 5 | 0 | 67 | 47 | 0.97 | 0.89 | |
1941 | 20 | 14 | 13 | 4 | 0 | 15 | 3 | -- | -- | [注 8].833 | 587 | 150.0 | 93 | 3 | 45 | -- | 1 | 58 | 2 | 0 | 28 | 20 | 1.20 | 0.92 | |
1942 | 40 | 30 | 27 | 8 | 1 | 26 | 8 | -- | -- | .765 | 1196 | 306.1 | 174 | 3 | 119 | -- | 2 | 110 | 6 | 0 | 50 | 38 | 1.12 | 0.96 | |
1943 | 18 | 14 | 11 | 3 | 0 | 10 | 5 | -- | -- | .667 | 537 | 136.0 | 75 | 2 | 57 | -- | 3 | 71 | 3 | 0 | 22 | 18 | 1.19 | 0.97 | |
1944 | 7 | 7 | 7 | 2 | 1 | 6 | 0 | -- | -- | 1.000 | 254 | 66.0 | 40 | 0 | 23 | -- | 0 | 27 | 2 | 0 | 9 | 5 | 0.68 | 0.95 | |
1946 | パシフィック 太陽 |
5 | 4 | 2 | 0 | 0 | 1 | 1 | -- | -- | .500 | 138 | 31.2 | 35 | 1 | 16 | -- | 0 | 11 | 0 | 0 | 10 | 7 | 1.99 | 1.61 |
1947 | 20 | 19 | 16 | 1 | 2 | 8 | 10 | -- | -- | .444 | 662 | 162.1 | 142 | 3 | 48 | -- | 2 | 77 | 1 | 0 | 59 | 37 | 2.05 | 1.17 | |
1948 | 金星 大映 |
37 | 32 | 28 | 3 | 1 | 17 | 13 | -- | -- | .567 | 1187 | 298.1 | 240 | 6 | 80 | -- | 3 | 138 | 4 | 1 | 90 | 72 | 2.17 | 1.07 |
1949 | 52 | 40 | 35 | 9 | 6 | 27 | 17 | -- | -- | .614 | 1519 | 376.0 | 357 | 24 | 69 | -- | 4 | 163 | 2 | 1 | 130 | 109 | 2.61 | 1.13 | |
1950 | 35 | 28 | 17 | 2 | 3 | 11 | 15 | -- | -- | .423 | 995 | 234.1 | 270 | 21 | 48 | -- | 4 | 86 | 1 | 1 | 115 | 103 | 3.96 | 1.36 | |
1951 | 14 | 13 | 8 | 0 | 2 | 6 | 6 | -- | -- | .500 | 391 | 100.2 | 79 | 5 | 22 | -- | 2 | 47 | 0 | 5 | 39 | 30 | 2.68 | 1.00 | |
1952 | 24 | 18 | 12 | 1 | 1 | 8 | 10 | -- | -- | .444 | 618 | 150.1 | 145 | 9 | 43 | -- | 2 | 44 | 3 | 0 | 63 | 51 | 3.05 | 1.25 | |
1953 | 26 | 23 | 17 | 3 | 2 | 11 | 9 | -- | -- | .550 | 811 | 201.2 | 175 | 11 | 42 | -- | 4 | 61 | 3 | 0 | 67 | 60 | 2.68 | 1.08 | |
1954 | 高橋 トンボ |
29 | 25 | 11 | 1 | 1 | 8 | 13 | -- | -- | .381 | 756 | 178.1 | 191 | 12 | 45 | -- | 3 | 52 | 2 | 0 | 85 | 74 | 3.73 | 1.32 |
1955 | 33 | 27 | 12 | 1 | 4 | 7 | 21 | -- | -- | .250 | 820 | 196.2 | 205 | 9 | 30 | 3 | 4 | 56 | 4 | 0 | 102 | 85 | 3.89 | 1.19 | |
通算:19年 | 586 | 449 | 350 | 83 | 31 | 303 | 176 | -- | -- | .633 | 16754 | 4175.1 | 3230 | 122 | 1221 | 3 | 55 | 1960 | 50 | 9 | 1221 | 969 | 2.09 | 1.07 |
いずれもNPB達成第1号かつ最速記録[62]
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