丸尾長顕
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丸尾 長顕(まるお ちょうけん、1901年4月7日 - 1986年2月28日)は、作家、演出家。
大阪府生まれ。本名・一ノ木長顕(ながあき)[1]。1918年(大正7年)、関西甲種商業学校(現・関西大学第一高等学校)を卒業後[2]、1922年、旧制・関西学院高等部商科(現・関西学院大学)卒業[1]。
1928年、「芦屋夫人」が「週刊朝日」の懸賞に入選、モダニスムの代表作といわれる[1]。宝塚少女歌劇団(現・宝塚歌劇団)の文芸部に所属し、同歌劇団機関誌「歌劇」の編集長も務めた。1933年上京し「婦人画報」編集長となる[1]。戦時中、陸軍省情報部長嘱託となったため、戦後一時公職追放[1]。
1951年、小林一三に請われて日劇ミュージックホール・プロデューサーとなり、メリー松原、伊吹マリ、ジプシー・ローズ等の肉体美を擁し、洗練されたヌードショーを披露、同ホールの黄金時代を築き上げた[1]。
1956年(昭和31年)、日劇ミュージックホールに出演していた深沢七郎が書いた「楢山節考」を読み、中央公論新人賞に応募するように勧めた[3]。「楢山節考」は第1回受賞作に選ばれた。
5人の女性と結婚した艶福家で、自称“年齢廃止連盟”会長の万年青年だった[1]。