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第二次世界大戦中の日本の政治スローガン ウィキペディアから
八紘一宇(はっこういちう、旧字体:八紘一宇、英語: Eight crown cords, one roof)、または八紘為宇[1](はっこういう、旧字体:八紘爲宇)とは、「天下を一つの家のようにすること」または「全世界を一つの家にすること」を意味する語句であり[2]、「天皇総帝論」、「唯一の思想的原動力」等ともいう[3]。『日本書紀』の「八紘(あめのした)を掩(おお)ひて宇(いえ)にせむ」を、全世界を一つの家のようにすると解釈したもの[4]。
一つの家とは、つまり「八紘一宇」とは、人種・民族・宗教等の差別なく、世界のみんなが一つの家に平和に暮らす理想を願った意味合いである。
『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』、『大辞泉』、『大辞林』は、「八紘一宇」とは第二次世界大戦中、日本の中国・東南アジアへの侵略を正当化するスローガンとして用いられたと記す(実際の八紘一宇の意味は、「世界中みな兄弟である」という平和的思想を持った言葉であるが)[5][6][7]。『日本書紀』には、大和橿原に都を定めた時の神武天皇の詔勅に「兼六合以開都,掩八紘而為宇」(六合〈くにのうち〉を兼ねて以て都を開き、八紘〈あめのした〉を掩いて宇〈いえ〉と為す)との記述があり、これをもとに田中智学が日本的な世界統一の原理として1903年(明治36年)に造語したとされる[5]。
このように、『日本書紀』の記述は「八紘為宇(掩八紘而為宇)」であるが、1940年(昭和15年)8月に、第二次近衛内閣が基本国策要綱で大東亜新秩序を掲げた際、「皇国の国是は八紘を一宇とする肇国(ちょうこく、建国の意)の大精神に基づく」と述べ[1]、これが「八紘一宇」の文字が公式に使われた最初となった[1]。近衛政権が「八紘一宇」という語を述べた西暦1940年は皇紀(神武紀元)2600年に当たり、「八紘一宇」は1940年の流行語になり、政治スローガンにもなった。1940年の近衛政権以来、教学刷新評議会の「国体観念をあきらかにする教育」を論ずる中などで頻繁に使用され[1]、「大東亜共栄圏の建設、延いては世界万国を日本天皇の御稜威(みいづ)の下に統合し、おのおのの国をしてそのところを得しめようとする理想」を表明するものとして引用使用された[1]。
第二次世界大戦に至る中で、「八紘一宇」は「天皇総帝論」であり、それはまた
等であると認識されていった[3]。こうした八紘一宇・天皇総帝論の由来は、「天皇信仰の主唱者」「世紀の予言者」と呼ばれていた幕末の国学者・大国隆正が唱えた議論だった[8]。これは要するに、天皇は世界の皇帝たちよりも上の地位にあり、歴史の「必然」として世界の「総帝」であるという主張だった[8]。八紘一宇においては、天皇が「現人神」「唯一天皇」「唯一神」「真神」「絶対至尊」などと見なされるようにもなった[9]。このようにして、大国隆正のような国学者たちが足がかりにされ、「八紘一宇」が日本建国の理念へと結合されて、「伝統の発明」が完成した[10]。
この言葉が日本でよく知られるようになったのは『日本書紀』巻第三・神武天皇即位前紀己未年三月丁卯条の「令」(いわゆる橿原奠都の詔)である[注 1]。
「上則答乾霊授国之徳、下則弘皇孫養正之心。然後、兼六合以開都、掩八紘而為宇、不亦可乎」
(上は則ち乾霊の国を授けたまいし徳に答え、下は則ち皇孫の正を養うの心を弘め、然る後、六合を兼ねて以て都を開き、八紘を掩いて宇と為さん事、亦可からずや。) — 日本書紀巻第三・神武天皇即位前紀己未年三月丁卯条の「令」
この意味について、記紀において初代天皇とされている神武天皇を祀っている橿原神宮は以下のように説明をしている[12]。
日本書紀の元々の記述によれば「八紘為宇」である。「八紘一宇」というのはその後、戦前の大正期に日蓮主義者の田中智學が国体研究に際して使用し、縮約した語である。ただし現代では、「為宇」の文字が難解であるため、「八紘一宇」の表記が一般的となっており、神武天皇の神勅について言及する際にも「一宇」が用いられる例がしばしば存在する[12]。また「八紘」という表現は古代中国でしばしば用いられた慣用句を元としている。
この言葉が日本でよく知られるようになったのは上記に参照した『日本書紀』巻第三・神武天皇即位前紀己未年三月丁卯条の「令」(いわゆる橿原奠都の詔)からの引用である[11]。ここで「八紘」とは、
に見ることができる。すなわち「8つの方位」「天地を結ぶ8本の綱」を意味する語であり、これが転じて「世界」を意味する語として解釈されている。また、「一宇」は「一つ」の「家の屋根」を意味している。
それ以後「八紘」の語は世界と同義語として若干使われた形跡がある。たとえば箕作阮甫が1851年(嘉永4年)に著した『八紘通誌』は、世界地理の解説書である。しかし大正期までこの言葉は文人が時々用いる雅語どまりで、それほど用例が豊富ではなかった。
このような表現は中国の正史『後漢書』・『晋書』にもあり、例えば『晋書』では晋の武帝、司馬炎が三国志でも有名な呉・蜀を滅ぼし中国全土を統一したことを「八紘同軌」[注 2]といっている。なお『晋書』は「天壌無窮」の典拠だともされる。
津田左右吉の説によれば、『日本書紀』は『「文選』に見えている王延寿の魯霊光殿賦のうちの辞句をとってそれを少し言い変えたもの」といい、元来は「(大和地方は服属したが、さしあたって橿原に皇居を設けることにするが、大和以外の地方はまだ平定してないゆえ)日本の全土を統一してから後に、あらためて壮麗な都を開き、宮殿を作ろう」という意味だという[14]。
これに対し小島憲之は、「兼六合以開都、掩八紘而為宇」の出典を左思の蜀都賦の「蓋兆基於上世、開国於中古。廓霊関以為門、包玉塁而為宇。帯二江之双流、抗峨眉之重阻。水陸所湊、兼六合而交会焉。豊蔚所盛、茂八区而菴藹焉。」や呉都賦の「古先帝代、曽覧八紘之洪緒、一六合而光宅。」に求め、「魯霊光殿賦よりも寧ろ蜀都賦に出典を求むべきであることは両賦の比較によつて自ら明かであらう。」と述べた[15]。
さらに井上了も、魯霊光殿賦の「廓宇宙而作京。」や「宅附庸而開宇。」を「『書紀』の直接の出典とするのは無理があろう。」と津田説を批判し、曹植の大暑賦の「壮皇居之瑰瑋兮、歩八紘而為宇。節四運之常気兮、逾太素之儀矩。」や与楊徳祖書の「吾王於是設天網以該之、頓八紘以掩之、今尽集茲国矣。」という用例を指摘した[16]。
大正期に日蓮宗から在家宗教団体国柱会を興した日蓮主義者・田中智學が「下則弘皇孫養正之心。然後」(正を養うの心を弘め、然る後)という神武天皇の宣言に着眼して「養正の恢弘」という文化的行動が日本国民の使命であると解釈、その結果「掩八紘而為宇」から「八紘一宇」を道徳価値の表現として造語したとされる[17]。これについては1913年(大正2年)3月11日に発行された同団体の機関紙・国柱新聞「神武天皇の建国」で言及している。田中は1922年(大正11年)出版の『日本国体の研究』に、「人種も風俗もノベラに一つにするというのではない、白人黒人東風西俗色とりどりの天地の文、それは其儘で、国家も領土も民族も人種も、各々その所を得て、各自の特色特徴を発揮し、燦然たる天地の大文を織り成して、中心の一大生命に趨帰する、それが爰にいう統一である」と述べている[18]。もっとも、田中の国体観は日蓮主義に根ざしたものであり、「日蓮上人によって、日本国体の因縁来歴も内容も始末も、すっかり解った」[19]と述べている[注 3]。
八紘一宇の提唱者の田中は、その当時から戦争を批判し死刑廃止も訴えており、軍部が宣伝した八紘一宇というプロパガンダに田中自身の思想的文脈が継承されているわけではない。田中は1923年(大正12年)11月3日、社会運動組織として立憲養正會を創設。「養正」の語も神武天皇即位前紀から取られている。立憲養正會は1929年(昭和4年)智學の次男、田中澤二が総裁となると、政治団体色を強め、衆議院ほか各種選挙に候補を擁立[注 4]。衆議院の多数を制し、天皇の大命を拝し、合法的に「国体主義の政治を興立」することを目標とした。その後、同会は一定の政治勢力となり、田中耕が衆議院議員を2期[注 5]務めたほか、地方議会や農会には最盛期で100人を超す議員が所属したが、新体制運動や大政翼賛会を批判していたことで弾圧の対象となり、1942年(昭和17年)3月17日に結社不許可処分を受け、解散に追い込まれた。日蓮主義を政治に実現しようとすることは、軍部などが言う国体を無視する思想であると見なされたためである。同年の第21回衆議院議員総選挙(いわゆる「翼賛選挙」)では、現職の田中耕ほか元会員37名が無所属で立候補したものの、全員が落選している。戦後に同会より衆議院議員に当選した齋藤晃は、当時「護国の政治運動を展開していたが、大政翼賛会や憲兵から弾圧を受けた」という。田中澤二は公職追放となったものの、同会組織は復活し、再び衆議院に議席を獲得した。日本国憲法施行後も同会公認の浦口鉄男が衆議院議員に当選。浦口は他の小政党所属議員とともに院内会派を結成し、政権野党として活動した。
1936年(昭和11年)に発生した二・二六事件では、反乱部隊が認(したた)めた「蹶起趣意書」に、「謹んで惟るに我が神洲たる所以は万世一系たる天皇陛下御統帥の下に挙国一体生成化育を遂げ遂に八紘一宇を完うするの国体に存す。此の国体の尊厳秀絶は天祖肇国神武建国より明治維新を経て益々体制を整へ今や方に万邦に向つて開顕進展を遂ぐべきの秋なり」とある。
「八紘一宇」という表現を内閣として初めて使ったのは第一次近衛内閣であり、1937年(昭和12年)11月10日に内閣・内務省・文部省が国民精神総動員資料第4輯として発行した文部省作成パンフレット「八紘一宇の精神」であるとされる[20]。1940年(昭和15年)には、第2次近衛内閣による基本国策要綱(閣議決定文書、7月26日)で、「皇国ノ国是ハ八紘ヲ一宇トスル肇国ノ大精神ニ基キ世界平和ノ確立ヲ招来スルコトヲ以テ根本トシ先ツ皇国ヲ核心トシ日満支ノ強固ナル結合ヲ根幹トスル大東亜ノ新秩序ヲ建設スルニ在リ」[注 6]と表現し、大東亜共栄圏の建設と併せて言及された。同年9月27日には、日独伊三国同盟条約の締結を受けて下された詔書にて「大義ヲ八紘ニ宣揚シ坤輿ヲ一宇タラシムルハ実ニ皇祖皇宗ノ大訓ニシテ朕ガ夙夜眷々措カザル所ナリ」と言及されるに至った。
現在、日本の代表的な国語辞典において八紘一宇は「第二次大戦中、日本の海外侵略を正当化するスローガンとして用いられた」[6][7]と説明されている。
第二次世界大戦での日本の降伏後、連合国軍最高司令官総司令部によるいわゆる神道指令により国家神道・軍国主義・過激な国家主義を連想させるとして、公文書における八紘一宇の語の使用が禁止された[22]。
昭和初期に活躍したジャーナリストである清水芳太郎は、世界大恐慌の中、主要国がこぞってブロック経済の構築を進めていた国際情勢に対抗するために、八紘一宇の理念を提唱すべきであると主張した[23]。清水はブロック経済の中で大国が行っていることは弱者に対する搾取であると批判した。そして日本は八紘一宇の精神を想起し、弱肉強食を前提とした搾取の構造に加わることなく、むしろ敵を拝んで仲間とし、平和を達成すべきであるとした[24]。
更に八紘一宇といふ事は、世界が一家族の如く睦み合ふことである。
これは國際秩序の根本原則を御示しになつたものであらうか。現在までの國際秩序は弱肉強食である。強い國が弱い國を搾取するのである。所が、一宇即ち一家の秩序は一番強い家長が弱い家族を搾取するのではない。一案強い者が弱い者のために働いてやる制度が家だ。世界中で一番強い國が弱い國、弱い民族達のために働いてやる制度が出来た時、初めて世界は平和になる。日本は一番強くなつて、そして天地の萬物を生じた心に合一し、弱い民族達のために働いてやらねばならぬぞと仰せられたのであらう。何といふ雄渾なことであらう。日本の國民は振ひ起たねばならぬではないか。強國はびこつて弱い民族をしいたげている。 — 『建國』(1938年)、58頁
一方で、八紘一宇の考えがヨーロッパでの迫害から満州や日本に逃れてきたユダヤ人やポーランド人を救済する人道活動につながったとの評価がある。
当時の日本はナチス・ドイツをはじめとする同盟国の政策を取り入れず、独自のユダヤ人保護政策をとった。当時制定された「現下に於ける対猶太民族施策要領」及び「猶太人対策要綱」では、ユダヤ人についてあくまで受動的な立場をとること、そしてドイツをはじめとする欧州諸国には八紘一宇の精神等に立脚する理由を理解させる旨が記載されている[25]。
猶太民族に対しては現下時局の推移に伴い、台頭しつつある在極東猶太民族の日満依存傾向を利導して之を世界に散在する彼ら同族に及ぼし以て彼らにして功利的術数を抛ち、真に正義公道を基として日満両国に依存するにおいては之を八紘一宇の我大精神に抱擁統合するを理想とす。然れどもこれが実施に方りては、世界情勢の推移、満州国内の状況、猶太民族の特性に鑑み、序を追って特に慎重を期するを要す。之が為、現下の情勢に応じ取敢えず施策上着意すべき要綱を述ぶれば左記の如し。
一、対猶太人(ユダヤ人)対策の実施は、一般に尚暫く受動的態度をとると共に、日満両国政府の公的機関の表面進出を避け、専ら内面工作に依り裏面隠微の間に序を追うて進む。
四、ドイツその他列国に対しては、我民族協和、八紘一宇の精神並びに防共の大義に遵由するを諒解せしめ誤解なからしむ。 — 『現下に於ける対猶太民族施策要領 昭和十三年一月二十一日関東軍司令部』(編集により現代仮名遣いとした)
二、諸工作の実施に方りては、急激なる成果の獲得に焦慮するを戒むると共に、苟も敏感なる彼らをして我態度を迎合乃至便宜的利用主義と誤認せしめ、あるいは彼らをして恩に狎れて増長に至らしめざるを要す。特に現下、満州国の開発に際し外資導入に専念するの余り、猶太資本を迎合的に投下せしめるがごとき態度は厳に之を抑止す。
三、全満に於ける猶太人耕作は関東軍司令部において統制各実施期間は相互連携を密にし支離の態度に陥るなからしむ。
新しい歴史教科書をつくる会元理事の上杉千年は、「八紘一宇の精神があるから軍も外務省もユダヤ人を助けた」とする見解を示している[26]。
戦後、1945年(昭和20年)12月22日に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)からいわゆる「神道指令」が発令された。同指令は、日本国民を解放するため、戦争犯罪、敗北、苦悩、困窮及び現在の悲惨な状態を招いた「イデオロギー」を即刻廃止するべきとし[27]、「八紘一宇」の用語は国家神道、軍国主義、過激な国家主義と切り離すことができない言葉として「大東亜戦争」などとともに公文書での使用を禁じられた[28][29]。
また「八紘一宇」をはじめとする「国家主義的イデオロギー」と結びついた用語を教育内容から除外することがGHQにより命令された。
一 日本新内閣ニ対シ教育ニ関スル占領ノ目的及政策ヲ充分ニ理解セシムル連合国軍最高司令部ハ茲ニ左ノ指令ヲ発スル
A 教育内容ハ左ノ政策ニ基キ批判的ニ検討、改訂、管理セラルベキコト
(2)議会政治、国際平和、個人ノ権威ノ思想及集会、言論、信教ノ自由ノ如キ基本的人権ノ思想ニ合致スル諸概念ノ教授及実践の確立ヲ奨励スルコト」 — 日本教育制度ニ対スル管理政策(昭和二十年十月二十二日連合国軍最高司令部ヨリ終戦連絡中央事務局経由日本帝国政府ニ対スル覚書)
(1)軍国主義的及び極端ナル国家主義的イデオロギーノ普及ヲ禁止スルコト、軍事教育ノ学科及ビ教練ハ凡テ廃止スルコト
1946年(昭和21年)より開廷された極東国際軍事裁判において、検察側意見では「八紘一宇の伝統的文意は道徳であるが、…一九三〇年に先立つ十年の間…これに続く幾年もの間、軍事侵略の諸手段は、八紘一宇と皇道の名のもとに、くりかえしくりかえし唱道され、これら二つの理念は、遂には武力による世界支配の象徴となった」としたが[30]、東条英機の弁護人・清瀬一郎は『秘録・東京裁判』のなかで「八紘一宇は日本の固有の道徳であり、侵略思想ではない」との被告弁護側主張が判決で認定されたとしている[31]。
「神道指令」発令以降、八紘一宇はマスコミから手のひら返しのごとく批判を浴びせられるようになった[注 7]。
1957年(昭和32年)9月、文部大臣松永東は衆議院文教委員会で、「戦前は八紘一宇ということで、日本さえよければよい、よその国はどうなってもよい、よその国はつぶれた方がよいというくらいな考え方から出発しておったようであります」と発言した。1983年(昭和58年)1月衆議院本会議では、総理大臣中曽根康弘も「戦争前は八紘一宇ということで、日本は日本独自の地位を占めようという独善性を持った、日本だけが例外の国になり得ると思った、それが失敗のもとであった」と説明した[35]。
政治評論家の佐高信は、政治家の加藤紘一について「加藤紘一の紘一は八紘一宇から取ったんですよ」と発言したことがある[36]。
東京オリンピックのあった1964年(昭和39年)頃には、宮崎県の平和の塔(八紘一宇の塔)への聖火リレー起点招致を念頭に、「世界平和を謳うオリンピックの精神と『八紘一宇』は同義」である、とする意見が広がり始めた[37]。
2015年3月16日、参議院予算委員会において参議院議員の三原じゅん子(自由民主党)が「八紘一宇」という言葉をとりあげ「日本が建国以来、大切にしてきた価値観である」と述べて物議を醸した。
アメリカは自国民に対し、映画で以て八紘一宇を以下のようにプロパガンダしようとしたが、公開前に終戦し戦争中に公開されることは無かった。
宮崎県宮崎市の中心部北西の高台、宮崎県立平和台公園(戦前は「八紘台」と呼ばれていた)にある塔。かつての正式名称は「八紘之基柱(あめつちのもとはしら)」[37]。設計は、彫刻家の日名子実三[40]。現在は「平和の塔」と称されている。
神武天皇が大和に東征するまでの皇居と伝えられる皇宮屋(こぐや)の北の丘に1940年(昭和15年)、紀元二千六百年記念行事の一つとして建造された。
高さ36 m、塔の四隅には和御魂(にぎみたま)・幸御魂(さちみたま)・奇御魂(くしみたま)・荒御魂(あらみたま)の四つの信楽焼の像、正面中央に秩父宮雍仁親王の書による「八紘一宇」の文字が刻まれている。内部には神武東征などを記した石膏レリーフがあるが非公開。第二次世界大戦敗戦後に「八紘一宇」の文字と荒御魂像(武人を象徴)は一旦削られたが、荒御魂像像は1962年(昭和37年)、「八紘一宇」の文字は1965年(昭和40年)に復元された。この復元運動の中心となったのは、県の観光協会会長を務めていた岩切章太郎(宮崎交通社長)だった[41]。
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