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小説家 (1927-2007) ウィキペディアから
城山 三郎(しろやま さぶろう、1927年〈昭和2年〉8月18日[2] - 2007年〈平成19年〉3月22日)は、日本の小説家。本名:杉浦 英一(すぎうら えいいち)[2]。
城山 三郎 (しろやま さぶろう) | |
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中央公論社『週刊公論』3月27日号(1961)より | |
誕生 |
杉浦 英一(すぎうら えいいち) 1927年(昭和2年)8月18日 日本 愛知県名古屋市 |
死没 |
2007年3月22日(79歳没) 日本 神奈川県茅ヶ崎市(茅ヶ崎徳洲会総合病院)[1] |
職業 | 小説家、大学教員、経済学者 |
国籍 | 日本 |
教育 | 学士 |
最終学歴 | 一橋大学 |
活動期間 | 1955年 - 2007年 |
ジャンル | 経済小説、伝記小説、歴史小説 |
主題 | 歴史、経済学 |
代表作 |
『総会屋錦城』(1959年) 『硫黄島に死す』(1963年) 『雄気堂々』(1972年) 『落日燃ゆ』(1974年) 『官僚たちの夏』(1975年) 『そうか、もう君はいないのか』(2008年) |
主な受賞歴 |
文學界新人賞(1957年) 直木三十五賞(1959年) 文藝春秋読者賞(1964年、1992年) 毎日出版文化賞(1975年) 吉川英治文学賞(1975年) 菊池寛賞(1996年) 朝日賞(2002年) |
デビュー作 | 『中京財界史』(1955年) |
ウィキポータル 文学 |
愛知県名古屋市中区生まれ[2]。名古屋市立名古屋商業学校(現在の名古屋市立向陽高等学校)を経て[2]、1945年(昭和20年)愛知県立工業専門学校(現在の名古屋工業大学)に入学[2]。理工系学生であったため徴兵猶予になるも、大日本帝国海軍に志願入隊[2]。海軍特別幹部練習生として[2]、特攻隊である伏龍部隊に配属になり[要出典]、訓練中に終戦を迎えた。これについて城山は「日本は明治維新と敗戦の2度、上の世代が飛んで、すっかりいなくなったからね。それが良かったのかもしれないねぇ」と語っている[3]。1946年(昭和21年)、東京産業大学(現在の一橋大学)予科入学[2]、1952年(昭和27年)一橋大学(山田雄三ゼミナール)を卒業[2][4]。卒業論文は「ケインズ革命の一考察」。
父が病気になったため帰郷し、岡崎市にあった愛知学芸大学(現在の愛知教育大学)商業科文部教官助手に就任[2]。担当は景気論[2]。1954年(昭和29年)、丸山薫の紹介で、永田正男、宇佐美道雄、国司通、岩崎宗治と月一回の読書会「くれとす」を始める[2]。同年、名古屋の「近代批評」の同人に加わる[2]。1957年(昭和32年)3月、名古屋市千種区の城山八幡宮(末森城址)付近に転居し、城山三郎と名乗る[2]。近くに城山八幡宮がありことと、3月に転居したことを組み合わせたペンネームである[2]。同年12月31日、神奈川県茅ヶ崎市に転居[2]。1963年(昭和38年)6月、愛知学芸大学専任講師を退職し[2]、日本作家代表団(団長・木下順二)の一員として訪中[2]。以後、作家業に専念する。
2001年、個人情報保護法が閣議決定されると、治安維持法が悪用された経緯から、佐高信らとともに個人情報保護法の成立に反対する活動を行った。城山は小泉純一郎に同法の廃案を求める書簡を送り[2]、2002年、同法案は廃案となった[2]。
2007年(平成19年)3月22日午前6時50分、間質性肺炎のため、茅ヶ崎市の茅ヶ崎徳洲会総合病院で死去、79歳没[1][5]。ウイルス性肺炎により快癒不能となったため、家族の意向で無理な治療は止め、呼吸の安楽措置になった[6]。お別れの会には、中曽根康弘、小泉純一郎、河野洋平、土井たか子、五木寛之らが出席した[2]。
ダイヤモンド社主催の「ダイヤモンド経済小説大賞」が発展・改称する形で「城山三郎経済小説大賞」が設けられたが、第4回(2012年(平成24年)12月発表)をもって終了。
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