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日本の小説家 (1867-1916) ウィキペディアから
夏目 漱石(なつめ そうせき、1867年2月9日〈慶応3年1月5日〉 - 1916年〈大正5年〉12月9日)は、日本の小説家、英文学者。武蔵国江戸牛込馬場下横町(現:東京都新宿区喜久井町)出身。本名は
夏目 漱石 (なつめ そうせき) | |
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1912年の夏目漱石 | |
誕生 |
1867年2月9日 武蔵国江戸牛込馬場下横町(現:東京都新宿区馬場下町) |
死没 |
1916年12月9日(49歳没) 日本 東京府東京市牛込区早稲田南町(現:東京都新宿区早稲田南町) |
墓地 | 雑司ヶ谷霊園(東京都豊島区) |
職業 | 教師・小説家・評論家・英文学者 |
言語 | 日本語 |
国籍 | 日本 |
教育 | 文学士(帝国大学・1893年) |
最終学歴 | 帝国大学英文科卒業 |
活動期間 | 1905年 - 1916年 |
ジャンル | 小説・俳句・漢詩・評論・随筆 |
主題 | 近代知識人の我執・個人主義・日本の近代化 |
文学活動 | 余裕派・反自然主義文学 |
代表作 | |
デビュー作 | 『吾輩は猫である』(1905年) |
配偶者 | 夏目鏡子 |
子供 |
夏目純一(長男) 夏目伸六(次男) |
親族 |
夏目房之介(孫) 松岡陽子マックレイン(孫) 半藤末利子(孫) 夏目太郎(新田太郎、兄の孫) 夏目哲郎(曾孫) 夏目一人(曾孫) |
ウィキポータル 文学 |
明治末期から大正初期にかけて活躍し、今日に通用する言文一致の現代書き言葉を作った近代日本文学の文豪のうちの一人。代表作は、『吾輩は猫である』『坊っちゃん』『三四郎』『それから』『こゝろ』『明暗』など。明治の文豪として日本の千円紙幣の肖像にもなった。講演録に「私の個人主義」がある。漱石の私邸に門下生が集まった会は木曜会と呼ばれた。
大学時代に正岡子規と出会い、俳句を学んだ。帝国大学(のちの東京帝国大学、現在の東京大学)英文科卒業後、松山で愛媛県尋常中学校教師、熊本で第五高等学校教授などを務めたあと、イギリスへ留学。大ロンドンのカムデン区、ランベス区などに居住した。帰国後は東京帝国大学講師として英文学を講じ、講義録には『文学論』がある。南満洲鉄道株式会社(満鉄)総裁、鉄道院総裁、東京市長、貴族院議員などを歴任した官僚出身の政治家中村是公の親友としても知られる。
夏目金之助は、1867年2月9日(慶応3年1月5日)に江戸の牛込馬場下(現在の東京都新宿区喜久井町)にて、名主の夏目小兵衛直克・千枝夫妻の末子(五男)として出生した。父の直克は江戸の牛込から高田馬場までの一帯を治めていた名主で、公務を取り扱い、大抵の民事訴訟もその玄関先で裁くほどで、かなりの権力を持ち、生活も豊かだった[1]。ただし、母の千枝は子沢山の上に高齢で出産したことから「面目ない」と恥じたといわれている。
名の「金之助」は、生まれた日が庚申の日に当たり、この日に生まれた赤子は大泥棒になるという迷信があったことから厄除けの意味で「金」の字が入れられたものである。また、3歳頃には疱瘡(天然痘)に罹患し、このときできた痘痕は目立つほどに残ることとなった。
金之助の祖父・夏目直基は道楽者で浪費癖があり、死ぬ時も酒の上で頓死したと言われるほどの人であったため、夏目家の財産は直基一代で傾いてしまった[1]。しかし父・直克の努力の結果、夏目家は相当の財産を得ることができた。とはいえ、当時は明治維新後の混乱期であり、夏目家は名主として没落しつつあったのか、金之助は生後すぐに四谷の古道具屋(一説には八百屋)に里子に出された。夜中まで品物の隣に並んで寝ているのを見た姉が不憫に思い、実家へ連れ戻したと伝わる。
金之助はその後、1868年(明治元年)11月、塩原昌之助のところへ養子に出された。塩原は直克に書生同様にして仕えた男であったが、見どころがあるように思えたので、直克は同じ奉公人の「やす」という女と結婚させ、新宿の名主の株を買ってやった[2]。しかし、昌之助の女性問題が発覚するなど塩原家は家庭不和になり、金之助は7歳の時、養母とともに一時生家に戻った。一時期、漱石は実父母のことを祖父母と思い込んでいたという。
養父母の離婚により金之助は9歳のとき生家に戻るが、実父と養父の対立により21歳まで夏目家への復籍が遅れた。このように、漱石の幼少期は波乱に満ちていた。この養父には、漱石が朝日新聞社に入社してから、金の無心をされるなど実父が死ぬまで関係が続いた。養父母との関係は、後の自伝的小説『道草』の題材にもなっている。
1874年(明治7年)、浅草寿町戸田学校下等小学第八級に入学後、金之助は市ヶ谷学校を経て錦華小学校へと転校を繰り返したが、錦華小学校へ移った理由は東京府第一中学への入学が目的であったともされている。
12歳の時、東京府第一中学正則科(府立一中、現在の都立日比谷高校)[注釈 1] に入学した。この当時の第一中学には正則科と変則科があり、正則科では大学予備門(のちの旧制第一高等学校)受験に必須であった英語の授業が行われていなかったこと、また漢学・文学を志すため、2年ほどの在籍で1881年(明治14年)に中退し、漢学私塾二松學舍(現在の二松學舍大学)に入学した。ただし、長兄・夏目大助に咎められるのを嫌い、中退後も弁当を持って一中に通うふりをしていた。なお、中学中退の直前には実母の千枝が死去しており、そのショックと二松學舎への入学とは漱石の内面でかなり深くつながっていたのではないかと指摘されている[3]。
しかし、長兄・大助が文学を志すことに反対したためもあり、二松學舎も一年で中退した。大助は病気で大学南校を中退し、警視庁で翻訳係をしていたが、出来のよかった末弟の金之助を見込み、大学を出させて立身出世をさせることで、夏目家再興の願いを果たそうとしていた。
2年後の1883年(明治16年)、金之助は英語を学ぶため、神田駿河台の英学塾成立学舎[注釈 2] に入学し、頭角を現した。
1884年(明治17年)、無事に大学予備門予科に入学した。大学予備門受験当日、隣席の友人に答えをそっと教えてもらっていたことも幸いした。その友人は不合格であった。大学予備門時代の下宿仲間には、後に満鉄総裁となる中村是公がいる。予備門時代の金之助は「成立学舎」の出身者らを中心に、中村是公、太田達人、佐藤友熊、橋本左五郎、中川小十郎らとともに「十人会」を組織している。
1886年(明治19年)、大学予備門は第一高等中学校に改称された。その年、金之助は虫垂炎を患い、予科二級の進級試験が受けられず是公とともに落第した。その後、江東義塾などの私立学校で教師をするなどして自活した。以後、学業に励み、ほとんどの教科において首席であった。特に英語が頭抜けて優れていた[注釈 3]。
1889年(明治22年)、金之助は同窓生として漱石に多大な文学的・人間的影響を与えることになる俳人・正岡子規と出会った。子規が手がけた漢詩や俳句などの文集『七草集』が学友らの間で回覧された時、金之助がその批評を巻末に漢文で書いたことから、本格的な友情が始まった。この時に初めて漱石という号を使った。漱石の名は、唐代の『晋書』にある故事「漱石枕流」(石に漱〔くちすす〕ぎ流れに枕す)から取ったもので、負け惜しみの強いこと、変わり者の例えである。「漱石」は子規の数多いペンネームのうちの一つであったが、後に漱石は子規からこれを譲り受けている。
同年9月、房州(房総半島)を旅した時の模様を漢文でしたためた紀行『木屑録』の批評を子規に求めるなど、徐々に交流が深まっていった。漱石の優れた漢文、漢詩を見て子規は驚いたという。以後、子規との交流は、漱石がイギリス留学中の1902年(明治35年)に子規が没するまで続いた。
1890年(明治23年)、創設間もなかった帝国大学(のちの東京帝国大学)英文科に入学した。この英文科は明治20年に新設されたばかりで、明治23年に入学したのは漱石だけで、2年上に先輩が1人いるだけであり、3年後輩に土井晩翠がいる[4]。この頃から厭世主義・神経衰弱に陥り始めたともいわれる。1887年(明治20年)の3月に長兄・大助と死別。同年6月に次兄・夏目栄之助と死別した。さらに直後の1891年(明治24年)には三兄・夏目和三郎の妻の登世と死別し、次々に近親者を亡くしたことも影響している。漱石は登世に恋心を抱いていたとも言われ(江藤淳説)、心に深い傷を受け、登世に対する気持ちをしたためた句を何十首も詠んでいる。
翌年、特待生に選ばれ、J・M・ディクソン教授の依頼で『方丈記』の英訳などをした。1892年(明治25年)、兵役逃れのために分家し、貸費生であったため、北海道岩内町に籍を移した[5]。同年5月あたりから東京専門学校(現在の早稲田大学)の講師をして自ら学費を稼ぎ始めた。
漱石と子規は早稲田の辺りを一緒に散歩することもあり、その様を子規は自らの随筆『墨汁一滴』で「この時余が驚いた事は漱石は我々が平生喰ふ所の米はこの苗の実である事を知らなかったといふ事である」と述べている。
7月7日、大学の夏期休業を利用して、松山に帰省する子規とともに、初めての関西方面の旅に出る。夜行列車で新橋を経ち、8日に京都に到着して二泊し、10日神戸で子規と別れて11日に岡山に到着した。岡山では、次兄・栄之助の妻であった小勝の実家、片岡機邸に1か月あまり逗留した。この間、7月19日、松山の子規から、学年末試験に落第したので退学すると記した手紙が届いた。漱石は、その日の午後、翻意を促す手紙を書き送り、「鳴くならば 満月になけ ほととぎす」の一句を添えた。その後、8月10日、岡山を立ち、松山の子規の元に向かった。子規の家で、のちに漱石を職業作家の道へ誘うことになる当時15歳の高浜虚子と出会った。子規は1893年(明治26年)3月、大学を中退した。
1893年(明治26年)、漱石は帝国大学を卒業し文学部長外山正一の推薦[6]で高等師範学校の英語教師となる。校長は嘉納治五郎で、面接の際に教育者として学生の模範になれと言われ「私にはとても勤まりかねる」と返答している[7]。夏目にとって英語の指導には負担を感じるものはなかったが、自身が考究してきたのが英文学であり英語学ではない事や、教育者を育成する師範学校の学生の「模範」であるべき者としての資質に葛藤があり[8]、また恋愛問題があったり1894年(明治27年)2月には血痰が出て結核検査を受けるなど[9]、極度の神経衰弱・強迫観念にかられるようになる。菅虎雄の勧めで12月の暮れに鎌倉の円覚寺で釈宗演の下に参禅をするなどして治療を図るも、効果は得られなかった。
1895年(明治28年)、東京から逃げるように高等師範学校を辞職し、菅虎雄の斡旋で愛媛県尋常中学校(旧制松山中学、現在の松山東高校)に英語教師として赴任した[10]。松山は子規の故郷であり、ここで2か月あまり静養を取った。この頃、子規とともに俳句に精進し、数々の佳作を残している。赴任中は愚陀仏庵に下宿したが、52日間に渡って正岡子規も居候した時期があり、俳句結社「松風会」に参加し句会を開いた。これはのちの漱石の文学に影響を与えたと言われている。
1896年(明治29年)、熊本市の第五高等学校(熊本大学の前身)の英語教師に赴任した(月給100円)。親族の勧めもあり貴族院書記官長・中根重一の長女・鏡子と結婚するが、3年目に鏡子は慣れない環境と流産のためヒステリー症が激しくなり白川井川淵に投身を図るなど順風満帆な夫婦生活とはいかなかった。家庭面以外では漱石は俳壇でも活躍し、名声を上げていった。
1898年(明治31年)、寺田寅彦ら五高の学生たちが漱石を盟主に俳句結社の紫溟吟社を興し、俳句の指導をした。同社は多くの俳人を輩出し、九州・熊本の俳壇に影響を与えた[11]。
1900年(明治33年)5月、文部省より英語教育法研究のため(英文学の研究ではない)、英国留学を命じられた。9月10日に日本を出発[14]。最初の文部省への申報書(報告書)には「物価高真ニ生活困難ナリ十五磅(ポンド)ノ留学費ニテハ窮乏ヲ感ズ」と、官給の学費には問題があった。メレディスやディケンズをよく読み漁った。大学の講義は授業料を「拂(はら)ヒ聴ク価値ナシ」として、ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンの英文学の聴講をやめて、『永日小品』にも出てくるシェイクスピア研究家のウィリアム・クレイグ(William James Craig)の個人教授を受け、また『文学論』の研究に勤しんだが、英文学研究への違和感がぶり返し、再び神経衰弱に陥り始めた。「夜下宿ノ三階ニテツクヅク日本ノ前途ヲ考フ……」と述べ、何度も下宿を転々とした。このロンドンでの滞在中に、ロンドン塔を訪れた際の随筆『倫敦塔』が書かれている。
1901年(明治34年)、化学者の池田菊苗と2か月間同居することで新たな刺激を受け、下宿に一人籠って研究に没頭し始めた。その結果、今まで付き合いのあった留学生との交流も疎遠になり、文部省への申報書を白紙のまま本国へ送り、土井晩翠によれば下宿屋の女性主人が心配するほどの「驚くべき御様子、猛烈の神経衰弱」に陥った。1902年(明治35年)9月に芳賀矢一らが訪れた際には「早めて帰朝(帰国)させたい、多少気がはれるだろう、文部省の当局に話そうか」と話が出たためか、「夏目発狂」の噂が文部省内に流れた。漱石は急遽帰国を命じられ、同年12月5日にロンドンを発つことになった。帰国時の船には、ドイツ留学を終えた精神科医・斎藤紀一がたまたま同乗していた[15]。精神科医の同乗を知った漱石の親族は、これを漱石が精神病を患っているためであろうと、いよいよ心配したという[16]。
当時の漱石最後の下宿の反対側には、1984年(昭和59年)に恒松郁生によって「ロンドン漱石記念館」が設立された。漱石の下宿、出会った人々、読んだ書籍などを展示し一般公開されていたが、イギリスの欧州連合(EU)離脱への動きによる影響で、2016年9月末をもって閉館[17]。漱石ファンからの強い要望で、2019年5月8日、ロンドン南郊のサリー州にある恒松宅の一部を改装して再開された[18]。
1903年(明治36年)1月20日に英国留学から帰国した[19]。3月3日、東京の本郷区駒込千駄木町57番地に転入(現在の文京区向丘2-20-7、千駄木駅徒歩約10分。現在は日本医科大学同窓会館。敷地内に記念碑あり)。同月末、籍を置いていた第五高等学校教授を辞任した。同年4月、第一高等学校と東京帝国大学の講師になった(年俸は高校700円、大学800円)。当時の一高校長は、親友の狩野亨吉であった[注釈 4]。
東京帝大では小泉八雲の後任として教鞭を執ったが、前任者であった八雲の、一度口を開けばたちまち教室全体を詩的空気に包み込み酔わせてしまうような講義に対し、漱石の分析的な硬い講義は不評で、学生による八雲留任運動が起こったり、不平不満を陰口にされて貶されるなどした。川田順のように「ヘルン先生のいない文科に学ぶことはない」と法科に転じた学生もいた。
また、当時の一高での受け持ちの生徒に藤村操がおり、ある授業中に態度の悪さを漱石に叱責された数日後、華厳滝に入水自殺してしまい、それに伴い一高の生徒や同僚の教師達だけでなく、事件に衝撃を受けた知識人達の間で「漱石が藤村を死に追いやった」と謂われのない噂が囁かれる事となった。漱石は、藤村に関し『吾輩は猫である』に冗談めかして言及する[注釈 5]一方で、『草枕』の中で言及・批評を行っている[注釈 6]。
こうした職場での風評被害に苛まれて苦悩した結果、とうとう漱石は神経衰弱を患ってしまい、授業中や家庭において頻繁に癇癪を起こしては暴れまわるようになり、欠席・代講が増え、妻とも約2か月別居した。1904年(明治37年)にはある程度落ち着きを取り戻し、明治大学の講師も務めた(月給30円)。
その年の暮れ、高浜虚子から神経衰弱の治療の一環で創作を勧められ、処女作になる『吾輩は猫である』を執筆した。初めて子規門下の会「山会」で発表され、好評を博した。1905年(明治38年)1月、『ホトトギス』に1回の読み切りとして掲載されたが、好評のため続編を執筆した。この頃から作家として生きていくことを熱望し始め、その後『倫敦塔』『坊つちやん』と立て続けに作品を発表し、人気作家としての地位を固めていった。漱石の作品は世俗を忘れ、人生をゆったりと眺めようとする低徊趣味(漱石の造語)的要素が強く、当時の主流であった自然主義とは対立する余裕派と呼ばれた。
1906年(明治39年)、漱石の家には小宮豊隆や鈴木三重吉、森田草平などが出入りしていたが、作家としての名声が高まるにつれて来客が多くなり、仕事に支障をきたしはじめ、鈴木が毎週の面会日を木曜日と定めた。この日は誰が来てもよいことにしたので、漱石の書斎は多くの門下生が集まって語り合うサロンのような場になり、やがて「木曜会」と呼ばれるようになった(1906年10月8日付書簡によれば、10月11日から。)。
1907年(明治40年)2月、一切の教職を辞し、池辺三山に請われて朝日新聞社に入社した(月給200円)。この当時、日露戦争で販売数を急拡大させていた新聞各社は終戦による部数低下を回避するため本格文学の掲載に傾斜しており、漱石は読売と大阪朝日の両方から入社を申し込まれていた。大阪朝日の入社条件は関西に転居することが含まれていたため漱石が難色を示し、東京朝日で入社の上、大阪と東京の両紙で連載を行うことが取り決められた。また、当時京都帝国大学文科大学初代学長(現在の文学部長に相当)になっていた狩野亨吉からの英文科教授への誘いがあったがこれも断り、本格的に職業作家としての道を歩み始めた。
同年6月、職業作家としての初めての作品『虞美人草』の連載を開始。執筆途中に、神経衰弱や胃病に苦しめられた。1908年(明治41年)3月23日に平塚明子(平塚らいてう)と栃木県塩原で心中未遂事件を起こした門下の森田草平の後始末に奔走した(塩原事件)。
1909年(明治42年)、親友だった南満州鉄道総裁・中村是公の招きで満州・朝鮮を旅行した。この旅行の記録は『朝日新聞』に「満韓ところどころ」として連載される。
1910年(明治43年)6月、『三四郎』『それから』に続く前期三部作の3作目にあたる『門』を執筆途中に胃潰瘍で長与胃腸病院(長與胃腸病院)に入院した。
同年8月、療養のため門下の松根東洋城の勧めで伊豆の修善寺に出かけ、菊屋旅館で転地療養した。しかしそこで胃疾患になり、800 gにも及ぶ大吐血を起こし、生死の間を彷徨う危篤状態に陥った。これが「修善寺の大患」と呼ばれる事件である。
この時の一時的な「死」を体験したことは、その後の作品に影響を与えることとなった。漱石自身も『思い出すことなど』で、この時のことに触れている。最晩年の漱石は「則天去私」を理想としていたが、この時の心境を表したものではないかと言われる。『硝子戸の中』では、本音に近い真情の吐露が見られる。同年10月、容態が落ち着き、長与病院に戻り再入院した。その後も胃潰瘍などの病気に何度も苦しめられた。
1911年(明治44年)8月、関西での講演直後、胃潰瘍が再発し、大阪の大阪胃腸病院に入院した。東京に戻った後は、痔にかかり通院した。
1912年(大正元年)9月、痔の再手術を受けた。同年12月には、『行人』も病気のため初めて執筆を中絶した。
1913年(大正2年)は、神経衰弱、胃潰瘍で6月頃まで悩まされた。
1914年(大正3年)9月、4度目の胃潰瘍で病臥した。晩年は病との闘いを続けながらの執筆が続いた。作品は人間のエゴイズムを追い求めていき、後期三部作と呼ばれる『彼岸過迄』『行人』『こゝろ』へと繋がっていく。
1915年(大正4年)3月、京都へ旅行し、そこで5度目の胃潰瘍で倒れた。6月3日より『吾輩は猫である』執筆当時の環境に回顧し、『道草』の連載を開始した[21]。1916年(大正5年)には糖尿病にも悩まされた。その年、辰野隆の結婚式に出席して後の12月9日、腹腔内出血[22]を起こし『明暗』執筆途中に自宅で死去した。50歳没(49歳10か月)。
最期の言葉は、寝間着の胸をはだけながら叫んだ「ここに水をかけてくれ、死ぬと困るから」であったという。だが、四女・愛子が泣き出してそれを妻である鏡子が注意したときに漱石がなだめて「いいよいいよ、もう泣いてもいいんだよ」と言ったことが、最期の言葉ともされる[注釈 7]。
死の翌日、遺体は東京帝国大学医学部解剖室において長與又郎によって解剖された。その際に摘出された脳と胃は寄贈された。脳は、現在もエタノールに漬けられた状態で東京大学医学部に保管されている。重さは1,425グラムであった。戒名は文献院古道漱石居士。遺体は落合斎場で荼毘に付され、墓所は東京都豊島区南池袋の雑司ヶ谷霊園(1種14号1側3番)。
作品の著作権はすでに消滅し、パブリックドメインとなっている。
夏目家の系図によると、夏目家の先祖は清和源氏満快流の夏目氏の一族であり、三河国徳川氏の家臣であった夏目吉信(広次)とは先祖夏目国平を同じくする同族に当たる。夏目家の先祖は武田家に仕え、甲斐国八代郡夏目邑を賜わり、それから数代後に武田勝頼が没落したため、当時の当主夏目信頼は武蔵国埼玉郡岩槻邑に移り、太田氏房に仕え、その後岩槻藩を領した高力清長に仕えた[29]。子の氏正は病気のために隠退して郷士となり、豊島郡牛籠村にうつった[29]。1702年(元禄15年)旧暦4月、氏正の子夏目兵衛直情の時、名主に任じられたという[1][29]。ただし渡辺三男は旗本夏目氏や高力氏の系図と比較して世代数が少なすぎることや、通字に連続性がないなど、夏目家系図には不審な点があるとしている[30]。
夏目家は苗字帯刀を許され、奉行所に入る際のみ刀をはずすという待遇を認められていた[30]。現在も新宿区に存在する“夏目坂”は、漱石の父・直克により名付けられた。生誕の地の碑も坂に面している。
家紋(定紋)が“井桁に菊”であることから町名を喜久井町としたのも、直克であった[注釈 10]。なお、漱石自身の家紋は「菊菱」である。これは漱石が長男でないため、分家の証として用いていると考えられる(本家と分家 は違う家紋を用いるのが通常である)。
子供らの生年月日は次のようになっている。
(鏡子の 妹) | 鈴木禎次 | 夏目鏡子 | 夏目漱石 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
夏目伸六 | 夏目純一 | (長女・筆子) | 松岡譲 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(伸六の 長女) | (純一の 長女) | 夏目房之介 | 半藤末利子 | 半藤一利 | 松岡陽子 マックレイン | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
夏目一人 | Emi | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
漱石の門下生とされる者には、作家だけでなく、様々な分野の学者・教育者・文化人が含まれている。彼らによって漱石の影響は広汎な文化領域に及び、大正後期から昭和初期の知識人の間でスタンダードな価値観を形成した。そこで、戸坂潤はこの時期に「漱石文化」が成立していた[37] とし、その発信源となった門下生の集団は本多顕彰によって漱石山脈と命名されている[38]。門下の画家とされる津田青楓の「漱石山房と其弟子達」[39] が彼らの姿を描いた絵画として有名で、以下の顔ぶれが見られる。
また、以下の作家も漱石門下とされている。
更に、以下の学者・教育者・文化人も漱石に師事していた。
漱石は彼らと、自分の後継者を養成するという意味での師弟関係を結んでいたわけではない。漱石が教員だった時期の教え子もかなりの割合を占めているが、多くは木曜の面会日(所謂「木曜会」)を中心に客としてやって来た青年で、漱石との交流を通じて強い感化を受け、門下を称するに至ったものである。ただ、漱石は木曜会においてもほとんど対等の立場で彼らと議論しており、徳田秋声は自分が師事した尾崎紅葉と比べ「漱石氏の場合は事情が少し違って、厳密な意味の師弟関係とはいへない、各人は相当自由な態度でゐられたやうに思ふ」という[43]。門下生の一人とされる阿部次郎も次のように述べている。
「若し門下生とは、先生と正式に師弟の約を結んだ者を意味するならば、自分は先生には門下生なるものが全くなかったと云ひたい。固より先生の周囲には多くの若い人達が集ってゐた。先生と此等の人達との間には、先輩及び後輩として、今日の日本の文壇では他に見られないほどの親しみがあった。併し此等の人達は、先生がその道を伝へるために、特に簡抜された人達ではなかった。(中略)先生は唯その寛容な心を以て、自然にその門に集って来る青年を接見して、之と話をしたり、その相談に預かったり、時としてはその世話をされたりしたに過ぎなかった。所謂先生の門下生となるには、唯先生の風を慕って、木曜日にその家の客となれば足りたのである。先生と所謂門下生との関係は最初はこれほどの意味に過ぎない。(中略)先生はいつも独立を重んぜられる人であったから、所謂門下生に対して自分の意見を強制するやうなことは殆んどないやうに見受けられた。さうして実際先生と所謂門下生との間には、随分激しい意見の扞格があった。」[44]
また、阿部次郎が挙げている漱石門下のリストには、白樺派の武者小路実篤や志賀直哉も含まれており、長尾剛も彼らを事実上の弟子としている[45] 。彼らは文壇に先輩や師を持たないというポリシーを持っており、漱石門下を自称することはなかったが、当時の文壇で漱石を最も尊敬していることを自認していて、漱石も彼らに目をかけていた。彼らを上記の門下生と区別して、「直接の門下生ではなかった」とする見解もある[46] が、漱石本人にそのような区分意識があったわけではない。
門下生のうち、鈴木三重吉・小宮豊隆・森田草平・安倍能成は漱石と親炙の度合いが特に強く、木曜会を中心になって仕切っていたので、「漱石門下の四天王」と称されている。中でも小宮豊隆は漱石に最も愛されていたと言われ、漱石没後もその権威化に努めたことから「漱石神社の神主」と揶揄されることもあった。第五高等学校時代から漱石と深い信頼関係にあった寺田寅彦は門下生中でも別格扱いされており、一番弟子と呼ばれることも多い[45]。一方、野上弥生子は木曜会に出席したことがなく、漱石と直接会ったのは数回だけだったが、瀬沼茂樹や 大岡昇平から「漱石の最も正統な継承者」と評されている[47]。また、漱石文学の多様な性格のうち、「反自然主義の文学伝統は芥川龍之介に、倫理性は志賀直哉に、浪漫性は内田百閒に」継承されたという見解もある[48]。これらの作家のうち、一般的人気が最も高いのは芥川であり、学術面では阿部次郎・安倍能成・和辻哲郎が大正教養主義を主導して戦前のアカデミズムに大きな影響を与えたことから、戸坂潤はこの四人を「漱石文化の代表者」としている[37]。出版業界において「漱石文化」を普及させた最大の功労者が岩波茂雄である。
なお、漱石は朝日新聞を、目をかけた新進を世に出す場ともしており、作家としては無名であった森田草平や中勘助に『煤煙 (小説)』『銀の匙』を連載させ、それが彼らの出世作となった。大正3(1914)年、『こころ』の後の長編の連載を、それまで短編しか発表していなかった志賀直哉に依頼したのも同様の配慮による。志賀はそれを受けて長編執筆に取り組んだが、書き悩んで辞退することになり、漱石はその穴埋めを武者小路実篤・野上弥生子らに依頼している。そのとき武者小路が発表した「死」は、彼が最初にまとまった金を得た作となった[49]。(ただ、志賀は書き悩みながらも長編執筆を放棄せず、昭和12(1937)年にようやく完成させた。これが彼の唯一の長編『暗夜行路』である)。また漱石は明治42(1909)年、「朝日文芸欄」を創設して批評活動の場とし、森田草平・小宮豊隆に編集を担当させた。そこでこの二人や阿部次郎・安倍能成らが反自然主義の論陣を張って注目されたが、紙面を私物化しているという批判が朝日新聞社内で発生し、明治44年に廃止された。
大正4(1915)年の初夏、津末ミサオという作家志望の女性が名古屋から漱石の家を訪れたが、漱石は彼女の文才を評価せず、「地元の両親の元で暮らし続けたほうがよい」と勧めた。彼女はその後もたびたび木曜会に出席していたが、大正4年10月6日、霞ヶ浦で投身自殺を図り、二日後の時事新報に「新しき 女の入水、夏目漱石の門に学び、才媛の評あり」という記事が漱石の談話と共に掲載された(後に未遂と判明)[50]。漱石にとっては来客という以上の関係ではなかったが、マスコミは門下生とみなしており、阿部次郎の言葉にある「所謂門下生」の性格を裏付けるものとなっている。
1909年(明治42年)10月18日付の『東京朝日新聞』に掲載された随筆『満韓の文明』の記事において、漱石は以下の通り記述している[51]。
8日後の10月26日に伊藤博文がハルビン駅で暗殺された伊藤博文暗殺事件の後、11月6日付の『満洲日日新聞』に掲載された随筆『韓満所感(下)』の記事では、漱石は以下の通り記述している[52][53]。
『韓満所感』は2013年に発掘された随筆であるが、比較文学者の平川祐弘は、「漱石は植民地帝国の英国と張り合う気持ちが強かったせいか、ストレートに日本の植民地化事業を肯定し、在外邦人の活動を賀している。日韓併合に疑義を呈した石黒忠悳や上田敏のような政治的関心は示していない。正直に『余は幸にして日本人に生れたと云ふ自覚を得た』『余は支那人や朝鮮人に生れなくつて、まあ善かつたと思つた』と書いている。『まあ』に問題はあろうが、ともかくも日本帝国一員として発展を賀したのだ」と評している[54][55]。
1909年(明治42年)11月5日付の『満洲日日新聞』に掲載された漱石の随筆『韓満所感(上)』の記事において、伊藤博文の暗殺事件に触れており、「昨夜久し振りに寸閑を偸(ぬす)んで満洲日日へ何か消息を書かうと思ひ立つて、筆を執りながら二三行認め出すと、伊藤公が哈爾浜で狙撃されたと云ふ号外が来た。哈爾浜は余がつい先達て見物(けぶ)に行つた所で、公の狙撃されたと云ふプラツトフオームは、現に一ケ月前(ぜん)に余の靴の裏を押し付けた所だから、希有の兇変と云ふ事実以外に、場所の連想からくる強い刺激を頭に受けた」[53] などとしたうえで「余の如き政治上の門外漢は(中略)報道するの資格がないのだから極めて平凡な便り丈(だけ)に留めて置く」などと書いており、伊藤博文の暗殺事件に対する感想が綴られている。
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漱石は、歳を重ねるごとに病気がちとなり、トラホーム、神経衰弱、痔、糖尿病、命取りとなった胃潰瘍まで、多数の病気を抱えていた。『硝子戸の中』のように直接自身の病気に言及した作品以外にも、『吾輩は猫である』の苦沙弥先生が胃弱だったり、『明暗』が痔の診察の場面で始まっていたりするなど、小説にも自身の病気を下敷きにした描写がみられる。「秋風やひびの入りたる胃の袋」など、病気を題材にした句も多数ある。
酒は飲めなかったが、胃弱であるにもかかわらずビーフステーキや中華料理などの脂っこい食事を好んだ[注釈 13]。大の甘党で、療養中には当時貴重品だったアイスクリームを欲しがり、ついには家族に無断で業務用アイスクリーム製造機を取り寄せ、妻と大喧嘩になったこともある。当時出回り始めたジャムもお気に入りで、毎日のように舐め、医師に止められるほどだったという[注釈 14]。
胃弱が原因で頻繁に放屁をしたが、その音が破れ障子に風が吹きつける音にそっくりだったことから、「破障子」なる落款を作り、使用していたことがある。
また、漱石は天然痘(疱瘡)にかかっており、自分の容姿に劣等感を抱いていた。しかし当時は写真家が修正を加えることがよく行われており、今残っている写真には漱石が気にしていた「あばた」の跡が見受けられない。
漱石は、神経衰弱やうつ病あるいは統合失調症を患っていたとされている[注釈 15][56]。このことが当時のエリート層の一員であり、最上級のインテリでもあった漱石の生涯および作品に対していかに影響を及ぼしているのかが、精神医学者の病跡学上の研究対象となっており、実際にこれを主題としたいくつかの学術論文が発表されている。
望まれぬ末子として江戸の町方名主の家に生まれ、薄幸な少年時代を過した漱石が反官的(国家に反抗する姿勢)な態度を貫いたことに対して、津和野藩典医の長男として早くから家族中の期待と愛情により育てられた森鷗外は死ぬまで大日本帝国陸軍をはじめ国家官僚の職を歴任し、官側の人間であり続けた、という対照がある。夏目漱石は「余裕派」、森鷗外は「高踏派」と呼ばれた。
しかし、その一方では二人とも「自然主義文学の姿勢」とははっきりした距離を保ちながら洋の東西を問わぬ広い知識をもって文学活動を進め、歪んでいく近代化における価値観の主流においても自分たちの認識をしっかりと見据え、後続の文学世代に相応の影響を与えた。
なお、鷗外が1890年から1年ほど過ごし、『文づかひ』などを執筆した千駄木の邸宅は、後にロンドンより帰国した漱石が1903年から約3年居住して『吾輩は猫である』を著した場所でもあったが、現在、同邸は愛知県犬山市の博物館明治村に移築保存されている[57]。
「晩年の漱石は修善寺の大患を経て心境的な変化に至った」とは、のちの多くの批評家・研究家によって語られた論評である。また、この心境を表す漱石自身の言葉として「則天去私」という語句が広く知られ、『広辞苑』にも紹介されている。しかしながら、この「則天去私」という語は漱石自身が文章に残したわけではなく、漱石の発言を弟子たちが書き残したものであり、その意味は必ずしも明確ではない。
漱石の作品には、順序の入れ替え、当て字など言葉遊びの多用が見られる。漱石以前に使った形跡が見られない造単語や一般的に使われている漢字とは異なる別種の綴りがある。現在、下記の「浪漫」「沢山」のように一般用語化されたものも多いが、漢字検定の上級問題として用いられることも多い。
「兎に角」(とにかく)のように一般的な用法として定着したものもあると言われている。しかし、漱石が生きた時代は現在では使われない当て字が多く用いられており、たとえば「バケツ」を「馬尻」と書くのも当時としてはごく一般的であり、「単簡」などは当時の軍隊用語であるなど、漱石固有の当て字や言葉遊びであるということは、漱石以前の全ての資料を確認しない限り、確定はできない。
「新陳代謝」「反射」「無意識」「価値」「電力」「肩が凝る」などは漱石の造語であると言われているが、実際には漱石よりも古い用例がある。一例としては、漱石が「肩が凝る」という言葉を作ったとする説があるが、18世紀末頃(江戸時代後期)からの歌舞伎、滑稽本に用例が見られる。学術的に「漱石の造語」であると言える言葉はまだ一語も確認されていないが、「浪漫」については『教育と文芸』中に「適当の訳字がないために私が作って浪漫主義として置きました」との記述がある[注釈 17]。
日本人が作った漢詩の中には平仄が合っていても中国語での声調まで意識していないものもあるため、中国語で吟じられた場合には優れた漢詩とされにくい場合がある。しかし、漱石の漢詩は中国語で吟じられても美しい[61] とされ、2006年(平成17年)には『中国語で聞く 夏目漱石漢詩選』(耕文社)というCDつきの書籍も出版されている。
漱石の漢詩についての先駆的研究書としては、吉川幸次郎『漱石詩注』(1967年(昭和42年))があるが[62]、これは漱石の造詣が深かった禅の用語などに関しては注釈がないなどの不備があるとされている(『週刊読書人』勝又浩)。またそれに先立ち、1946年(昭和21年)、娘婿の松岡讓が『漱石の漢詩』[注釈 18] を出版している。2008年(平成20年)に作家の古井由吉により『漱石の漢詩』[63] が発表された[注釈 19]。禅の観点から注釈されたものとしては飯田利行『新訳 漱石詩集』[64] がある。ほかに和田利男『漱石の漢詩』[65] がある。2016年1月25日に二松学舎大学が、漱石直筆の漢詩文屏風を古書店から購入したと発表した。屏風は2枚折り1対、1枚が縦1m62、横80cm。内容は『禅林句集』から春夏秋冬の場面が選ばれていた[66]。
早稲田南町の漱石山房は第二次世界大戦中に空襲で焼失したが、小宮豊隆が館長を務めた縁で蔵書・日記等の自筆資料の大半が東北大学付属図書館に移動されており焼失を免れている。東北大学では「夏目漱石ライブラリ」として研究者へ公開している。近年では原稿用紙の劣化が進んでいるため、2019年にはデジタルアーカイブとして保存する資金をクラウドファンディングで調達した[67]。
神奈川近代文学館では遺族から提供された書画や落款印の画像を「Web版夏目漱石デジタル文学館」として公開している。
日本での絶大な名声に比較すると、欧米での知名度はそれほど高いとは言えないものの、英語圏では主要な作品のいくつかが訳されており、一定の評価を得ている。
中国・台湾・韓国ではよく知られており、多くの作品が中国語や韓国語に訳されている。中国語圏では周作人により紹介されて以来、多くの読書人に愛されてきた。韓国でも古くから漱石作品が親しまれてきたが、1990年代以降特に人気が高まり、「漱石ブーム」と言われるほどになった。
『坑夫』における「芋中の穢多」(芋の中で最下等のもの、の意)との表現が問題視され、角川書店はこの語を伏字にしたが、巻末の注で「特殊部落の人々への蔑称」と記述したためにかえって問題となり、1981年初めに部落解放同盟から糾弾された[70]。このくだりは、『夏目漱石全集4』(ちくま文庫)でも「芋中のヽヽ」と伏字になっている。
その他、1994年3月には『坊つちやん』における「小使」(学校用務員)の語がNHK-FM放送の朗読の時間に問題となり、「それだから中学校の小使なんぞをしてるんだ」などの文章をそのまま読み上げたうえで、朗読終了後にアナウンサーが弁解したことがある[71]。しかし、1994年4月からの『吾輩は猫である』では「
また、漱石は1913年から1914年にかけて、播州坂越の岩崎太郎次と名乗る者から缶入りの茶を贈られ、富士登山の絵に賛をしてくれ、赤穂義士に関する俳句を書いてくれとねだられたが断ったことがある[72]。すると岩崎は「書かないなら茶を返せ」としつこく要求を繰り返した[72]。漱石は岩崎の言動にあきれて「何(ど)うも穢多か猶太人でもなけりや、こんな鄙嗇(けち)なことは云はなかろう」と疑い、播州近くの男に岩崎の地元を調べさせた。すると「坂越と云ふは播州でも素封家の揃つて居る所ださうだ」との回答であった[73][74]。
現在は、作者が故人でありかつ文学作品であることから、これらが差別用語であることを認めたうえで、そのまま掲載されていることが多い。このような取り扱いは他の故人の作家でも同様であることが多い[注釈 20]。なお漱石には「穢多寺(えたでら)へ嫁ぐ憐れや年の暮」の句もある[75]。
漱石が英語教師をしていたときに、“I love you.”を「我君を愛す」と生徒が訳したので、漱石は「月が綺麗ですね」とロマンチックに訳せと教えた、という逸話がある。 ただし漱石の著作や記録にはそのような話は残されておらず、また漱石や彼に近しい人からそれを聞いたという文献・記録も存在しない[76]。
また似たような話は1970年代末にも存在し、そちらでは「月がとっても青いなあ」[77]・「月がとっても青いから」[78] と訳したとされている[79] 。しかし典拠が不明で[80]、1970年代頃から言われ始めた逸話であることから、これは後世の者による創作で、今では都市伝説になったとされている[76]。
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