斉国
西周・春秋・戦国時代の諸侯国 / ウィキペディア フリーな encyclopedia
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斉(せい、拼音:Qí、繁体字:齊國、簡体字:齐国、紀元前1046年[1] - 紀元前221年[2])は周朝の諸侯国に端を発し、西周・春秋時代・戦国時代にわたって中国の東方に存在した国家である。国号は単に「斉」であるが、「田氏代斉」以前の姜氏の斉と、以後の田氏の斉を区別するために前者を「姜斉」、後者を「田斉」と称する[8]。現在の山東省北部を中心に勢威を張り、盛時には山東省の大部分、河北省の東南部、河南省の東北部を支配した。戦国時代には、いわゆる「戦国七雄」の一国として強盛を誇り、秦が他の五国を滅ぼしたのちも命脈を保った[注釈 8]。斉は、秦によって最後に滅ぼされた国である[2]。
国姓 |
姜姓呂氏[1][注釈 1]あるいは斉氏[注釈 2][3] →嬀姓(中国語版)田氏[注釈 3][4] |
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爵位 | 侯[注釈 4]→紀元前344年に王を自称[5] |
国都 |
営丘[1](臨淄[6]) (現在の山東省淄博市臨淄区) |
分封者 | 武王[1][注釈 5] |
始祖 |
太公・呂尚[1] 太公・田和[7] |
滅亡原因 | 秦による攻撃(斉の滅亡)[2] |
史書の記載 |
『史記』巻032・斉太公世家 『史記』巻046・田敬仲完世家 |
周朝諸侯国一覧 | |
テンプレートを表示 |
斉国 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
繁体字 | 齊 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
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簡体字 | 齐 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
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創始者は、周の文王・武王の国師であった軍師の太公望呂尚(姜尚)である[1]。紀元前7世紀前半から中葉にかけての16代君主の桓公のとき、姜斉における最盛期をむかえ、桓公は「春秋五覇」の一人に数えられた[9][8]。前391年、姜斉32代君主の康公のとき、当時大夫として権勢を振るっていた田和が康公を海上の孤島に追放、康公は食邑として城を1つ与えられ、祖先の霊を祀ることだけを許された(「田氏代斉」)。田和は自立して斉の君主となり[7]、前386年、周の安王により諸侯の一人として認められた[10][7][8]。正式に侯となった田和は、国号を姜斉と同じく「斉」とした(「田斉」)。前344年、斉侯だった田因は自ら「斉王」を名乗り(斉の威王)[11]、周王室から独立した[5]。以後、「戦国七雄」の一国として独立を維持したが、前221年、秦の王賁・蒙恬らの斉攻略により滅亡した[2]。
斉の国都は臨淄[6](現在の山東省淄博市臨淄区[6])であり、旧名を営丘と称した[1]。紀元前9世紀の胡公の代に薄姑(臨淄の西北に50里の場所)に遷都したが[12]、短期間に終わり、次代の献公の代に営丘に戻した[13]。臨淄(営丘)は東方の大国の首都として、戦国時代には当代随一の都市として繁栄した。