田中清玄
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幕末会津藩士の「田中玄清」とは別人です。 |
田中 清玄(たなか せいげん、1906年〈明治39年〉3月5日 - 1993年〈平成5年〉12月10日)は、日本の実業家、政治活動家、CIA協力者[1][2][3]。フィクサーともいわれる。
概要 たなか きよはる 田中 清玄, 生誕 ...
たなか きよはる 田中 清玄 | |
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生誕 |
(1906-03-05) 1906年3月5日 北海道亀田郡七飯村(現七飯町) |
死没 | (1993-12-10) 1993年12月10日(87歳没) |
国籍 | 日本 |
別名 | たなか せいげん, 東京タイガー |
出身校 |
旧制函館中学 旧制弘前高校 東京帝国大学(中退) |
職業 | 実業家、政治活動家 |
政党 | 元日本共産党(第二次共産党、武装共産党)中央委員長 |
宗教 | 臨済宗(妙心寺派) |
配偶者 | ひで |
子供 | 次男:田中愛治 |
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戦前期の非合法時代の日本共産党(第二次共産党)中央委員長。転向後は政治活動家となり、戦後は実業家として三幸建設工業株式会社社長、光祥建設株式会社社長をつとめる。ロイズ保険の会員でもあり、日本人でロイズの会員になれたのは、田中と南方哲也(元長崎県立大学教授。南方熊楠の大甥)のみと言われている。モンペルラン・ソサイエティー会員。1993年12月10日、脳梗塞で死去した。