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聖変化(せいへんか、ラテン語: transubstantiatio、ギリシア語: μετουσίωσις, μετουσίωση、英: transubstantiation、露: Пресуществление)は、カトリック教会のミサや正教会の聖体礼儀において、パンとぶどう酒がイエス・キリストの体(聖体・聖体血)に変化すること。
カトリック教会のミサにおいて、司教・司祭がパンとぶどう酒を聖別するとき、パンの全実体はキリストのからだの実体に、ぶどう酒の全実体はその血の実体に変化する(実体変化)とされている[1]。これは福音書に記されている[2]、
『感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。』 — 日本聖書協会『聖書 新共同訳』、コリントの信徒への手紙1 11章24-25節
というイエス・キリストの言葉を根拠としているもので、カトリック教会ではつねに、これを「パンとぶどう酒の形をしてキリストがそこにおられる」(パンとぶどう酒の形態におけるキリストの現存)と言う意味に理解し、信じてきた[3]。この時、キリストの実体とは、体と血と霊魂を含む人性と三位一体の神性との実体のすべてを指す。この定義は第4ラテラン公会議(1215年)[4]およびトリエント公会議(1545-1563年)[5]で公式に認められた。
聖変化について、カトリック教会ではアリストテレス哲学による定義を用い、事物は実体と偶性(大きさ、色、かたち)からなり、実体それ自体は概念的なものであって偶性を伴ってはじめて存在するとする。従って、聖変化後のパンとぶどう酒は、偶性、即ちそれらの外観や科学的な組成は変わらずとも、実体は変化したと考える。そして実体は概念であるが故に不可視・不可触なものであると説明する(実体変化説)。プロテスタント側ではこれを「化体説」と呼ぶことがある[6]。 これに対して他教派や非キリスト教徒から批判されることがあり、特に宗教改革以降、プロテスタント諸派では、パンとぶどう酒が本当にキリストの体に変わる訳ではなく、単なるシンボルに過ぎないと考えたが、カトリック教会はトリエント公会議での議論によって改めてこれを否定し、現代に至っている[7]。 この、概念としての実体変化の有無に対する見解の相違、或いは批判は、カトリック神学と他教派の神学における聖餐論の違いであるといえよう。
トリエント公会議は次のように宣言している。
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