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日本の皇族・政治家 ウィキペディアから
聖徳太子(しょうとくたいし、旧字体:聖󠄁德太子 厩戸皇子)は、飛鳥時代の皇族・政治家。用明天皇の第二皇子で、母は欽明天皇の皇女・穴穂部間人皇女。
(豊聡耳皇子) | |
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聖徳太子(『聖徳太子勝鬘経講讃図』より) | |
皇太子 | |
在位 | 推古天皇元年4月10日(593年5月15日)- 推古天皇30年2月22日(622年4月8日) |
時代 | 飛鳥時代 |
生誕 | 敏達天皇3年1月1日(574年2月7日) |
死没 | 推古天皇30年2月22日(622年4月8日)[1] |
別名 | 上宮王、豊聡耳、上宮之厩戸豊聡耳命、厩戸豊聡耳皇子、法主王、豊聡耳聖、徳豊聡耳法大王、上宮太子聖徳皇、厩戸豊聰耳聖徳法王、上宮厩戸、厩戸皇太子、多利思比孤 |
諡号 | 聖徳太子 |
墓所 | 磯長墓(叡福寺北古墳) |
父母 | 父:用明天皇、母:穴穂部間人皇女 |
兄弟 |
田目皇子、豊聡耳皇子、当麻皇子、来目皇子、殖栗皇子、茨田皇子、酢香手姫皇女 (同母異父妹)佐富女王 |
妻 | 菟道貝蛸皇女、刀自古郎女、橘大郎女、膳大郎女 |
子 | 山背大兄王、財王、日置王、白髪部王、長谷王、三枝王、伊止志古王、麻呂古王、片岡女王、手島女王、舂米女王、久波太女王、波止利女王、馬屋古女王 |
叔母の推古天皇の下、摂政として蘇我馬子と協調して政治を行い、国際的緊張のなかで遣隋使を派遣するなど中国大陸を当時統治していた隋から進んだ文化や制度をとりいれて、冠位十二階や十七条憲法を定めるなど天皇を中心とした中央集権国家体制の確立を図った。このほか仏教を厚く信仰して興隆に努め、後世には聖徳太子自体が日本の仏教で尊崇の対象となった(太子信仰)[2]。
本名については同時代史料には残っておらず、和銅5年(712年)成立の『古事記』では「上宮之厩戸豊聡耳命(かみつみやのうまやとのとよとみみのみこと)」とされている。また養老4年(720年)成立の『日本書紀』推古天皇紀では「厩戸豊聡耳皇子命(うまやとのとよとみみのみこのみこと)」とされている[3]ほか、用明天皇紀では「豊耳聡聖徳[注釈 1]」や「豊聡耳法大王」という表記も見られる[4]。「聖徳太子」の語は『懐風藻』の序に見えるのが初出であり[5]、「厩戸王」という名は歴史学者の小倉豊文が1963年の論文で「生前の名であると思うが論証は省略する」として仮の名としてこの名称を用いたが、以降も論証することはなく[6]、田村圓澄が1964年発刊の中公新書『聖徳太子―斑鳩宮の争い』で注釈なしに本名として扱ったことで広まった[5]。『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』[注釈 2]が引く「元興寺露盤銘」には「有麻移刀」、「元興寺縁起」には「馬屋門、馬屋戸」と記載されており、前之園亮一は読みが「ウマヤト」であったことは事実であろうとしている[8]。
『日本書紀』推古天皇元年四月条には厩戸前にて出生したという記述があり、『上宮聖徳法王帝説』では厩戸を出たところで生まれたと記述されている[8]。厩戸の名はこれに基づくものとしばしば考えられている。古市晃は舒明天皇期の王宮であった厩坂宮が由来であるとし、渡里恒信は養育を行った額田部湯坐連が馬に深い関係を持っていたことに由来するとしている[9]。また井上薫は厩戸という名の氏族に養育されたのではないかとしているが、同名の氏族が存在したという記録はない[10]。
また「上宮(かみつみや)」を冠した呼称も見られる。『日本書紀』皇極天皇紀では太子の一族が居住していた斑鳩宮を指して「上宮」と呼称しているほか、子の山背大兄王を「上宮王」、娘を「上宮大娘姫王」とも呼称している[10]。顕真が記した『聖徳太子伝私記』の中で引用されている。『日本書紀』では、恵慈が「上宮豊聡耳皇子」の名を使った記述があり、「上宮太子」という記述もある[3]。
「上宮」の語は、古くは中国の歴史書『宋書』[注釈 3]や『南斉書』[注釈 4]に見え、皇帝や皇太子が居住する場所を表す言葉として用いられている[11]。また、南朝における皇太子は、皇帝の位を脅かす皇帝一族や外戚に代わり、「上宮」にて皇帝支配の一翼を担い、皇帝権を強化する存在として重視されていた。そのため、厩戸皇子が「上宮太子」や「上宮皇太子」などと呼ばれたのは、南朝から百済を経由してもたらされた皇太子や上宮という存在に関する知識が関連しているとする説が存在する[12]。
「厩戸」の語は、厩戸皇子やその一族と関係が深い片岡や馬見丘の地に、馬産に関わった渡来人、上牧・下牧・馬原部・馬見山・駒坂といった馬産に関する地名があったことなどが関連するとする説がある[13]。
「豊聡耳」の語は、「天寿国繡帳」には「等巳刀弥弥乃弥己等(とよとみみのみこと)」、「元興寺塔露盤銘」に「有麻移刀等已刀弥弥乃弥己等(うまやとのとよさとみみのみこと)」、元興寺の釈迦造像記には「等与刀弥弥大王(とよとみみのおおきみ)」とあることから、飛鳥時代には「とよとみみ」と読まれていたことがわかる(厩戸皇子の存命中にそのように呼ばれたかは不明)。また「耳(みみ)」は、神八井耳命や布帝耳神のように、飛鳥時代以前の日本において男性・男神の尊称として用いられた語である。ただし、後世(奈良時代以降)の戸籍には、性別や尊卑に限らず「みみ」を名前に取り入れた人物が多数見えるため、厩戸皇子の耳に関する伝承が生まれたのは奈良時代前後であったと考えられる[14]。
『日本書紀』では、名前から「上宮厩戸豊聡耳太子(うえのみやのうまやととよとみみのひつぎのみこ)」と呼ばれたとしている[3]。「聖徳太子」という名称は死去の129年後の天平勝宝3年(751年)に編纂された『懐風藻』が初出と言われる[注釈 5]。そして、平安時代に成立した史書である『日本三代実録[15]』『大鏡』『東大寺要録』『水鏡』等はいずれも「聖徳太子」と記載し、「厩戸」「豐聰耳」などの表記は見えないため、遅くともこの時期には「聖徳太子」の名が一般的な名称となっていたことがうかがえる。
713年-717年頃の成立とされる『播磨国風土記』印南郡大國里条にある生石神社の「石の宝殿」についての記述に、「池之原 原南有作石 形如屋 長二丈 廣一丈五尺 高亦如之 名號曰 大石 傳云 聖徳王御世 厩戸 弓削大連 守屋 所造之石也」(原の南に作石あり。形、屋の如し。長さ二丈(つえ)、廣さ一丈五尺(さか、尺または咫)、高さもかくの如し。名號を大石といふ。傳へていへらく、聖徳の王の御世、弓削の大連の造れる石なり)とあり、「弓削の大連」は物部守屋、「聖徳の王(聖徳王)」は厩戸皇子[16]と解釈する説もある。また、大宝令の注釈書『古記』(天平10年、738年頃)には上宮太子の諡号を「聖徳王」としたとある。
またこれらを複合したものでは、慶雲3年(706年)頃に作られた「法起寺塔露盤銘」には「上宮太子聖徳皇」、「法隆寺金堂薬師如来像光背銘」では「東宮聖王」、『日本書紀』では上宮厩戸豊聡耳太子のほかに「豊耳聡聖徳(とよみみさとしょうとく)[4]」「豊聡耳法大王」「法主王」「東宮聖徳」といった尊称が記されている。
敏達天皇3年(574年)2月7日、橘豊日皇子と穴穂部間人皇女との間に現在の奈良県明日香村に生まれた。橘豊日皇子は蘇我稲目の娘堅塩媛を母とし、穴穂部間人皇女の母は同じく稲目の娘・小姉君であり、つまり厩戸皇子は蘇我氏と強い血縁関係にあった。厩戸皇子の父母はいずれも欽明天皇を父に持つ異母兄妹であり、厩戸皇子は異母の兄妹婚によって生まれた子供とされている。
幼少時から聡明で仏法を尊んだと言われ、様々な逸話、伝説が残されている。
用明天皇元年(585年)、敏達天皇の死去を受け、父・橘豊日皇子が即位した(用明天皇)。この頃、仏教の受容を巡って崇仏派の蘇我馬子と排仏派の物部守屋とが激しく対立するようになっていた。用明天皇2年(587年)、用明天皇は死去した。皇位を巡って争いになり、馬子は、豊御食炊屋姫(敏達天皇の皇后)の詔を得て、守屋が推す穴穂部皇子を誅殺し、諸豪族、諸皇子を集めて守屋討伐の大軍を起こした。厩戸皇子もこの軍に加わった。討伐軍は河内国渋川郡の守屋の館を攻めたが、軍事氏族である物部氏の兵は精強で、稲城を築き、頑強に抵抗した。討伐軍は三度撃退された。これを見た厩戸皇子は、白膠の木を切って四天王の像をつくり、戦勝を祈願して、勝利すれば仏塔をつくり仏法の弘通に努める、と誓った。討伐軍は物部軍を攻め立て、守屋は迹見赤檮に射殺された。軍衆は逃げ散り、大豪族であった物部氏は没落した。(丁未の変)
戦後、馬子は泊瀬部皇子を皇位に就けた(崇峻天皇)。しかし政治の実権は馬子が持ち、これに不満な崇峻天皇は馬子と対立した。崇峻天皇5年(592年)、馬子は東漢駒に崇峻天皇を暗殺させた。推古天皇元年(593年)、馬子は豊御食炊屋姫を擁立して皇位につけた(推古天皇)。皇室史上初の女帝である。厩戸皇子は皇太子[注釈 6]となり、馬子と共に天皇を補佐した。
同年、厩戸皇子は物部氏との戦いの際の誓願を守り、摂津国難波に四天王寺を建立した。四天王寺に施薬院、療病院、悲田院、敬田院の四箇院を設置した伝承がある。推古天皇2年(594年)、仏教興隆の詔を発した。推古天皇3年(595年)、高句麗の僧慧慈が渡来し、太子の師となり「隋は官制が整った強大な国で仏法を篤く保護している」と太子に伝えた。
推古天皇5年(597年)、吉士磐金を新羅へ派遣し、翌年に新羅が孔雀を贈ることもあったが、推古天皇8年(600年)に新羅征討の軍を出し、交戦の末、調を貢ぐことを約束させる[注釈 7]。
推古天皇10年(602年)、再び新羅征討の軍を起こした。同母弟・来目皇子を将軍に筑紫に2万5千の軍衆を集めたが、渡海準備中に来目皇子が死去した(新羅の刺客に暗殺されたという説がある)。後任には異母弟・当麻皇子が任命されたが、妻の死を理由に都へ引き揚げ、結局、遠征は中止となった。この新羅遠征計画は天皇の軍事力強化が狙いで、渡海遠征自体は目的ではなかったという説もある。また、来目皇子の筑紫派遣後、聖徳太子を中心とする上宮王家及びそれに近い氏族(秦氏や膳氏など)が九州各地に部民を設置して事実上の支配下に置いていったとする説もあり、更に後世の大宰府の元になった筑紫大宰も元々は上宮王家が任じられていたとする見方もある[18]。書生を選び、来日した観勒に暦を学ばせる。
推古天皇11年(603年)12月5日、いわゆる冠位十二階を定めた。氏姓制ではなく才能を基準に人材を登用し、天皇の中央集権を強める目的であったと言われる。
推古天皇12年(604年)4月3日、「夏四月 丙寅朔戊辰 皇太子親肇作憲法十七條」(『日本書紀』)いわゆる十七条憲法を制定した。豪族たちに臣下としての心構えを示し、天皇に従い、仏法を敬うことを強調している。9月には、朝礼を改め、宮門を出入りする際の作法を詔によって定めた。[注釈 8]
推古天皇13年(605年)、諸王諸臣に、褶の着用を命じる。斑鳩宮へ移り住む。
推古天皇15年(607年)、屯倉を各国に設置する。高市池、藤原池、肩岡池、菅原池などを作り、山背国栗隈に大溝を掘る。小野妹子、鞍作福利を使者とし隋に国書[注釈 9]を送った。翌年、返礼の使者である裴世清が訪れた[注釈 10]。日本書紀によると裴世清が携えた書には「皇帝問倭皇」(「皇帝 倭皇に問ふ」)[注釈 11]とある。これに対する返書には「東天皇敬白西皇帝」(「東の天皇 西の皇帝に敬まひて白す)[注釈 12]とあり、隋が「倭皇」とした箇所を「東天皇」[注釈 13]としている。この返書と裴世清の帰国のため、妹子を、高向玄理、南淵請安、旻ら留学生と共に再び隋へ派遣した。
推古天皇20年(612年)、百済人の味摩之が伎楽を伝え、少年たちに伎楽を習わせた。
推古天皇21年(613年)、掖上池、畝傍池、和珥池を作る。難波から飛鳥までの大道を築く。日本最古の官道であり[19]、現在の竹内街道とほぼ重なる。
推古天皇22年(614年)、犬上御田鍬らを隋へ派遣する(最後の遣隋使となる)。
厩戸皇子は仏教を厚く信仰し、推古天皇23年(615年)までに『法華義疏』(伝:推古天皇23年(615年))、『勝鬘経義疏』(伝:推古天皇19年(611年))、『維摩経義疏』(伝:推古天皇21年(613年))を著した。これらを「三経義疏」と総称する。
推古天皇28年(620年)、厩戸皇子は馬子と議して『国記』『天皇記』『臣連伴造国造百八十部并公民等本記』を編纂した。
推古天皇30年(622年)、斑鳩宮で倒れた厩戸皇子の回復を祈りながらの厩戸皇子妃・膳大郎女が2月21日に死去し、その後を追うようにして翌22日、厩戸皇子は死去した(『日本書紀』では、同29年2月5日(621年))。享年49。『大安寺伽藍縁起幷流記資材帳』によれば、このとき厩戸皇子が田村皇子に熊凝寺を譲っており、これは嫡流の交替を象徴するものであった[20]。
以下は、聖徳太子にまつわる伝説的なエピソードのいくつかである。
なお、聖徳太子の事績や伝説については、それらが主に掲載されている『古事記』『日本書紀』(記紀)の編纂が既に死後1世紀近く経っていることや記紀成立の背景を反映して、脚色が加味されていると思われる。そのため様々な研究・解釈が試みられている。平安時代に著された聖徳太子の伝記『聖徳太子伝暦』は、聖徳太子伝説の集大成として多数の伝説を伝えている[注釈 14]。
「厩の前で生まれた」「母・間人皇女は西方の救世観音菩薩が皇女の口から胎内に入り、厩戸を身籠もった」(受胎告知)などの太子出生伝説に関して、「記紀編纂当時既に中国に伝来していた景教(キリスト教のネストリウス派)の福音書の内容などが日本に伝わり、その中からイエス・キリスト誕生の逸話が貴種出生譚として聖徳太子伝説に借用された」との可能性を唱える研究者(久米邦武が代表例)もいる[注釈 15]。
しかし、一般的には、当時の国際色豊かな中国の思想・文化が流入した影響と見なす説が主流である。ちなみに出生の西暦574年の干支は甲午(きのえうま)でいわゆる午年であるし、また古代中国にも観音や神仙により受胎するというモチーフが成立し得たと考えられている(イエスよりさらに昔の釈迦出生の際の逸話にも似ている)。出生地は橘寺またはその付近とされる。橘寺はタヂマモリが垂仁天皇の御世に常世の国から持ち帰った橘の実の種を植えた場所といわれる。
ある時、厩戸皇子が人々の請願を聞く機会があった。我先にと口を開いた請願者の数は10人にも上ったが、皇子は全ての人が発した言葉を漏らさず一度で理解し、的確な答えを返したという。この故事に因み、これ以降皇子は豊聡耳(とよとみみ、とよさとみみ)とも呼ばれるようになった[注釈 16]。
『上宮聖徳法王帝説』『聖徳太子伝暦』では8人であり、それゆえ厩戸豊聰八耳皇子と呼ばれるとしている。 『日本書紀』と『日本現報善悪霊異記』では10人である。また『聖徳太子伝暦』には11歳の時に子供36人の話を同時に聞き取れたと記されている。一方、「豊かな耳を持つ」=「人の話を聞き分けて理解することに優れている」=「頭がよい」という意味で豊聡耳という名が付けられてから上記の逸話が後付けされたとする説もある。
近年では、当時の日本は渡来人も行き来しており日本国内での言語はまだ一つに統一されておらず、聖徳太子が様々な言語や方言を聞き取ることができた人物だった、という意味ではないのかとする説が浮かび上がってきた[要出典]。
『日本書紀』には「兼知未然(兼ねて未然を知ろしめす、兼ねて未だ然らざるを知ろしめす)」とある。この記述は後世に未来記(聖徳太子による予言)の存在が噂される一因となった。『平家物語』巻第八に「聖徳太子の未来記にも、けふのことこそゆかしけれ」とある。また、『太平記』巻六「正成天王寺の未来記披見の事」には楠木正成が未来記を実見し、後醍醐天皇の復帰とその親政を読み取る様が記されている。これらの記述からも未来記の名が当時良く知られていたことがうかがわれる。
中世から近世にかけて未来記は多数偽作され、有名なものでは寛弘4年(1007年)の『荒陵寺御手印縁起』、慶安元年(1648年)の『聖徳太子日本国未来記』、延宝7年(1679年)の『先代旧事本紀大成経』の69巻目『未然本記』などがある[22]。
「南嶽慧思後身説(慧思禅師後身説)」と呼ばれる説。聖徳太子は天台宗開祖の天台智顗の師の南嶽慧思(515年 - 577年)の生まれ変わりであるとする。『四天王寺障子伝(七代記)』『上宮皇太子菩薩伝』『聖徳太子伝暦』などに記述があるかもしれない。
『聖徳太子伝暦』や『扶桑略記』によれば、太子は推古天皇6年(598年)4月に諸国から良馬を貢上させ、献上された数百匹の中から四脚の白い甲斐の黒駒を神馬であると見抜き、舎人の調使麿に命じて飼養する。同年9月に太子が試乗すると馬は天高く飛び上がり、太子と調使麿を連れて東国へ赴き、富士山を越えて信濃国まで至ると、3日を経て都へ帰還したという。
『日本書紀』によると次のようなものである。
推古天皇21年12月庚午朔(613年)皇太子が片岡(片岡山)に遊行した時、飢えた人が道に臥していた。姓名を問われても答えない。太子はこれを見て飲み物と食物を与え、衣を脱いでその人を覆ってやり、「安らかに寝ていなさい」と語りかけた。太子は次の歌を詠んだ。
「斯那提流 箇多烏箇夜摩爾 伊比爾惠弖 許夜勢屡 諸能多比等阿波禮 於夜那斯爾 那禮奈理鷄迷夜 佐須陀氣能 枳彌波夜祗 伊比爾惠弖 許夜勢留 諸能多比等阿波禮」
しなてる 片岡山に 飯(いひ)に飢(ゑ)て 臥(こ)やせる その旅人(たびと)あはれ 親無しに 汝(なれ)生(な)りけめや さす竹の 君はや無き 飯に飢て臥せる その旅人あはれ
翌日、太子が使者にその人を見に行かせたところ、使者は戻って来て、「すでに死んでいました」と告げた。太子は大いに悲しんで、亡骸をその場所に埋葬してやり、墓を固く封じた。数日後、太子は近習の者を召して、「あの人は普通の者ではない。真人にちがいない」と語り、使者に見に行かせた。使者が戻って来て、「墓に行って見ましたが、動かした様子はありませんでした。しかし、棺を開いてみると屍も骨もありませんでした。ただ棺の上に衣服だけがたたんで置いてありました」と告げた。太子は再び使者を行かせて、その衣を持ち帰らせ、いつものように身に着けた。人々は大変不思議に思い、「聖(ひじり)は聖を知るというのは、真実だったのだ」と語って、ますます太子を畏敬した。
『万葉集』には上宮聖德皇子作として次の歌がある。
上宮聖德皇子出遊竹原井之時見龍田山死人悲傷御作歌一首
(小墾田宮御宇天皇代墾田宮御宇者豐御食炊屋姫天皇也諱額田諡推古)
「家有者 妹之手將纏 草枕 客爾臥有 此旅人𪫧怜」
家にあらば 妹(いも)が手纒(ま)かむ 草枕客(たび)に臥やせる この旅人あはれ
また、『拾遺和歌集』には聖徳太子作として次の歌がある[注釈 18]。
しなてるや片岡山に飯に飢ゑて臥せる旅人あはれ親なし
後世、この飢人は達磨大師であるとする信仰が生まれた。飢人の墓の地とされた北葛城郡王寺町に達磨寺が建立されている[注釈 19]。
日本各地には聖徳太子が仏教を広めるために建てたとされる寺院が数多くあるが、それらの寺院の中には後になって聖徳太子の名を借りた(仮託)だけで、実は聖徳太子は関わっていない寺院も数多くあると考えられており、境野黄洋は聖徳太子が建立した寺院について「法隆寺と四天王寺は確実である」と述べている[25]。
敬神の詔を推古15年(607年)に出したことからわかるように、聖徳太子は神道の神をも厚く祀った。四天王寺境内には鳥居があるほか、伊勢遥拝所・熊野権現遥拝所、守屋祠がある。
墓は、宮内庁により大阪府南河内郡太子町の叡福寺境内にある磯長墓(しながのはか)に治定されている。遺跡名は「叡福寺北古墳」で、円墳である。『日本書紀』には「磯長陵」と見える。穴穂部間人皇女と膳部菩岐々美郎女を合葬する三骨一廟である。なお、明治時代に内部調査した際の記録を基にした横穴式石室の復元模型が大阪府立近つ飛鳥博物館に存在する。
直径約55メートルの円墳。墳丘の周囲は「結界石」と呼ばれる石の列によって二重に囲まれている。2002年に結界石の保存のため、宮内庁書陵部によって整備され、墳丘すそ部が3カ所発掘された。2002年11月14日、考古学、歴史学の学会代表らに調査状況が初めて公開された。墳丘の直径が55メートルを下回る可能性が指摘されている[26][注釈 21]。
聖徳太子の系譜 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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ここでは、以下の著作をいくつかとりあげる。聖徳太子に仮託した偽書も多く[注釈 22]、『十七条憲法』や『三経義疏』のように研究者間でも意見が分かれるものが存在する。
聖徳太子の聖人化は、『日本書紀』に既に見えており、8世紀には「本朝(日本)の釈迦」と仰がれ、鎌倉時代までに『聖徳太子伝暦』など現存するものだけで二十種以上の伝記と絵伝(中世太子伝)が成立した[27]。こうした伝記と絵伝により「聖徳太子信仰」は形成されていった。
太子自身を信仰対象として、聖徳太子像を祀った太子堂が各地の寺院にある。聖徳太子は観音菩薩の化身として尊ばれた[28]。なお、「聖徳太子は観音菩薩の生まれ変わりである」とする考えもある。
その他、室町時代の終わり頃から、太子の祥月命日とされる2月22日を「太子講」の日と定め、大工や木工職人の間で講が行なわれるようになった。これは、四天王寺や法隆寺などの巨大建築に太子が関わり諸職を定めたという説から、建築、木工の守護神として崇拝されたことが発端である。さらに江戸時代には大工らの他に左官や桶職人、鍛冶職人など様々な職種の職人集団により太子講は盛んに営まれるようになった[29]。なお、聖徳太子を本尊として行われる法会は「太子会」と称される。
現在は、聖徳太子を開祖とする宗派として聖徳宗(法隆寺が本山)が存在している。
親鸞は、聖徳太子を敬っていた。親鸞は数多くの和讃を著したが、聖徳太子に関するものは、『正像末和讃』の中に11首からなる「皇太子聖徳奉讃」のほか、75首からなる『皇太子聖徳奉讃』、114首からなる『大日本国粟散王聖徳太子奉讃』など多くの「太子和讃」を残している[30]。その太子和讃の中で、「仏智慧不思議の誓願を 聖徳皇のめぐみにて(略)[注釈 23]」と阿弥陀如来の誓願を聖徳太子のお恵みによって知らせていただいたと[31]詠われ、「和国の教主聖徳皇[注釈 24]」と太子を日本に生まれて正法を興した主である[注釈 25]と詠われた。親鸞の聖徳太子に纏わる夢告はいくつかあるが、六角堂に参篭した際の救世観音菩薩の夢告などを通して、自分の進むべき道を問い、尋ね、確かめていったと考えられる[32]。
以降、親鸞を開祖とする浄土真宗では聖徳太子への尊崇が高まった。また、昭和時代に十七条憲法に疑問を呈した津田左右吉を告訴した原理日本社は、親鸞を尊崇する超国家主義団体であった[33]。
聖徳太子は古代から評価されていた人物であるが、其の内容は時代によって大いに異なる。浄土信仰が盛んであった頃は、聖徳太子は浄土への導き手として尊崇された[34]。また、戦国時代には物部守屋を破った「軍神」としても信仰された[34]。江戸時代の儒学者や国学者には仏教をもたらしたことで日本を歪めたとされ、厳しく批判された[35][注釈 26]。明治時代になると憲法制定の先駆者や大国と平等外交を行った外交家として評価された[33]。第二次世界大戦期には「十七条憲法」のうち「和をもって尊しとなす」「承詔必謹」の部分が強調され、聖徳太子に関連する小冊子を文部省が配布することもあった[35]。戦後になると「和」は平和と同一視されるようになり、「民主憲法」の元祖とみられるようになった[33]。また亀井勝一郎や家永三郎のように「人間としての聖徳太子」を見るものも現れた[33]。こうした状況を新川登亀男や井上章一などは「聖徳太子観は時代と自らを映す鏡」であると評している[35]。
関晃は次のように解説する。「推古朝の政治は基本的には蘇我氏の政治であって、女帝も太子も蘇我氏に対してきわめて協調的であったといってよい。したがって、この時期に多く見られる大陸の文物・制度の影響を強く受けた斬新な政策はみな太子の独自の見識から出たものであり、とくにその中の冠位十二階の制定、十七条憲法の作成、遣隋使の派遣、天皇記 国記 以下の史書の編纂などは、蘇我氏権力を否定し、律令制を指向する性格のものだったとする見方が一般化しているが、これらもすべて基本的には太子の協力の下に行われた蘇我氏の政治の一環とみるべきものである」[37]。
田村圓澄は次のように解説する。「推古朝の政治について、聖徳太子と蘇我馬子との二頭政治であるとか、あるいは馬子の主導によって国政は推進されたとする見解があるが、572年(敏達天皇1)に蘇我馬子が大臣となって以来、とくに画期的な政策を断行したことがなく、聖徳太子の在世中に内政・外交の新政策が集中している事実から考えれば、推古朝の政治は太子によって指導されたとみるべきである」[38]。
内藤湖南は『隋書』「卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國」に記述された俀王多利思北孤による「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」の文言で知られる国書は聖徳太子らによる著述と推定している[注釈 27]。
聖徳太子の肖像画は1930年(昭和5年)、紙幣(日本銀行券)の絵柄として百円紙幣に初めて登場して以来、千円紙幣、五千円紙幣、一万円紙幣と登場し、累計7回と最も多く紙幣の肖像として使用された。また、長きに渡って使用されたため、「お札の顔」として日本国民に広く認識されるようになった。特に高度成長期に当たる1958年(昭和33年)[39]から1984年(昭和59年)に発行された「C一万円券」が知られており、高額紙幣の代名詞として「聖徳太子」という言葉が使用された。なお、この肖像は太子を描いた最古の『聖徳太子二王子像』から採られている。黒川真頼は、論文の中で、太子が着ている服装は①「朱華衣(はねず)」という天武天皇から持統天皇在位(685~697年)までの皇族用の服であるということ、②手にしている笏(しゃく)は大化3年(647年)以後に制度化されること、③冠は漆紗冠(しっしゃかん)といって682年に始まったという説を唱えている[40]。1948年(昭和23年)発行の500円収入印紙にも聖徳太子の肖像画、とされるものが採用された。
近代における実証的研究には久米邦武の『上宮太子実録』[41]がある。
また、十七条憲法を太子作ではないとする説は江戸後期の考証学者狩谷棭斎らに始まり、津田左右吉は十七条憲法を太子作ではないと主張した[42]。第二次世界大戦後、井上光貞、坂本太郎や関晃らは津田説に反論している[43][注釈 28]。一方、森博達は十七条憲法を『日本書紀』編纂時の創作としている[44]。
高野勉の『聖徳太子暗殺論』(1985年)は、聖徳太子と厩戸皇子は別人であり、蘇我馬子の子・善徳が真の聖徳太子であり、後に中大兄皇子に暗殺された事実を隠蔽するために作った架空の人物が蘇我入鹿であると主張している。また石渡信一郎は『聖徳太子はいなかった—古代日本史の謎を解く』(1992年)を出版し、谷沢永一は『聖徳太子はいなかった』(2004年)を著している。近年は歴史学者の大山誠一らが主張している(後述)。
1999年、大山誠一『「聖徳太子」の誕生』(吉川弘文館)が刊行された[45]。大山は「厩戸王の事蹟と言われるもののうち冠位十二階と遣隋使の2つ以外は全くの虚構」と主張。さらにこれら2つにしても『隋書』に記載されてはいるが、その『隋書』には推古天皇も厩戸王も登場しないと大山は考えた。そうすると推古天皇の皇太子・厩戸王(聖徳太子)は文献批判上では何も残らなくなり[注釈 29][注釈 30]、痕跡は斑鳩宮と斑鳩寺の遺構のみということになる。また、聖徳太子についての史料を『日本書紀』の「十七条憲法」と法隆寺の「法隆寺薬師像光背銘文、法隆寺釈迦三尊像光背銘文、天寿国繡帳、三経義疏」の二系統に分類し、全て厩戸皇子よりかなり後の時代に作成されたとする。
大山は、飛鳥時代に斑鳩宮に住み斑鳩寺も建てたであろう有力王族、厩戸王の存在の可能性は否定しない。しかし、推古天皇の皇太子として、知られる数々の業績を上げた聖徳太子は、『日本書紀』編纂当時の実力者であった、藤原不比等らの創作であり、架空の存在であるとする。以降、『聖徳太子の真実』(平凡社、2003年)や『天孫降臨の夢』(NHK出版、2009年)など多数の研究を発表している[46]。
大山説の概要「有力な王族厩戸王は実在した。信仰の対象とされてきた聖徳太子の実在を示す史料は皆無であり、聖徳太子は架空の人物である。『日本書紀』(養老4年、720年成立)に最初に聖徳太子の人物像が登場する。その人物像の形成に関係したのは藤原不比等、長屋王、僧の道慈らであるとされ、十七条憲法は『日本書紀』編纂の際に創作されたとする。藤原不比等の死亡、長屋王の変の後、光明皇后らは『三経義疏』、法隆寺薬師像光背銘文、法隆寺釈迦三尊像光背銘文、天寿国繡帳の銘文等の法隆寺系史料と救世観音を本尊とする夢殿、法隆寺を舞台とする聖徳太子信仰を創出した。」[47][注釈 31]
大山説は雑誌『東アジアの古代文化』102号で特集が組まれ、102号、103号、104号、106号誌上での論争は『聖徳太子の実像と幻像』(大和書房、 2001年) にまとめられている。石田尚豊は公開講演『聖徳太子は実在するか』の中で、聖徳太子虚構説とマスコミの関係に言及している[45]。『日本書紀』などの聖徳太子像には何らかの誇張が含まれるという点では、多くの研究者の意見は一致しているが、聖徳太子像に潤色・脚色があるということから「非実在」を主張する大山説には批判的な意見が数多くある。三浦佑之など大山説に賛同を表明する研究者もいる[注釈 32]。
仁藤敦史(国立歴史民俗博物館研究部教授)は、『日本書紀』や法隆寺系以外の史料からも初期の太子信仰が確認され、法隆寺系史料のみを完全に否定することは無理があると批判している[注釈 33]。また「推古朝の有力な王子たる厩戸王(子)の存在を否定しないにもかかわらず、後世の「聖徳太子」と峻別し、史実と伝説との連続性を否定する点も問題」としている[49]。
遠山美都男は「『日本書紀』の聖徳太子像に多くの粉飾が加えられていることは、大山氏以前に多くの研究者がすでに指摘ずみ」としたうえで、「大山説の問題点は、実在の人物である厩戸皇子が王位継承資格もなく、内政・外交に関与したこともない、たんなる蘇我氏の血を引く王族に過ぎなかった、と見なしていることである。斑鳩宮に住み、壬生部を支配下におく彼が、王位継承資格も政治的発言権もない、マイナーな王族であったとは到底考えがたい。」「『日本書紀』の聖徳太子はたしかに架空の人物だったかもしれないが、大山氏の考えとは大きく異なり、やはり厩戸皇子は実在の、しかも有力な王族だった」と批判している[50]。
ほか、和田萃[注釈 34]や、曽根正人[51][注釈 35]らの批判がある。
平林章仁は、日本書紀はそもそも舎人親王が監督した正式な朝廷編纂の国史書であり、個人の意図で大幅に内容が変えられるものでないとして、日本書紀は虚構説の資料にはならないと指摘している。
倉本一宏は「『聖徳太子』はいた」として、聖徳太子虚構説を「『聖徳太子』というのは、あとからできた敬称ですが、厩戸王という人はいたわけです。有力な王族であったことは確かですし、推古天皇、蘇我馬子とともに政を行っていたことは間違いない。ただし、その業績が伝説化された部分はあると思います」として、法隆寺は南都七大寺で唯一王権とほとんど関係なく、創建者の厩戸一族も滅んでいるという後ろ楯不在の寺であるため、存在意義のために聖徳太子伝説が必要であり、そこで作られたのが法隆寺系縁起であり、これらの史料がたまたま『日本書紀』に採用され、聖徳太子伝説を作ったのは法隆寺である旨指摘している[52]。
聖徳太子虚構説に対する反論としては、直木孝次郎「厩戸王の政治的地位について」、上田正昭「歴史からみた太子像の虚実」(『聖徳太子の実像と幻像』所収)(2001年)、森田悌『推古朝と聖徳太子』(2005年)、などがある。また石井公成は、「大山説は想像ばかりで論証になっていない」とし[6]、新資料の発見とコンピュータ分析によって、「憲法十七条」や三経義疏は聖徳太子の作と見てよいと論じている[53]。
聖徳太子の存在を傍証する資料は、『日本書紀(巻22推古紀)』及び「十七条憲法]、『古事記』[注釈 36]、『三経義疏』、『上宮聖徳法王帝説』、天寿国繡帳(天寿国曼荼羅繡帳)、法隆寺薬師如来像および釈迦三尊像の光背銘文、同三尊像台座内墨書、道後湯岡碑銘文、法起寺塔露盤銘、『播磨国風土記』、『上宮記』などの歴史的資料がある。これらのなかには厩戸皇子よりかなり後の時代、もしくは『日本書紀』成立以降に制作されたと考えられるものもあり、現在、決着してはいない。
大山説は藤原不比等と長屋王の意向を受けて、僧道慈(在唐17年の後、718年に帰国)が創作したとする。しかし、森博達は「推古紀」を含む『日本書紀』巻22は中国音による表記の巻(渡来唐人の述作)α群ではなく、日本音の表記の巻(日本人新羅留学僧らの述作)β群に属するとする。「推古紀」は漢字、漢文の意味及び用法の誤用が多く、「推古紀」の作者を17年の間唐で学んだ道慈とする大山説には批判がある[誰?]。森博達は文武天皇朝(697年-707年)に文章博士の山田史御方がβ群の述作を開始したとする[54]。
『上宮聖徳法王帝説』巻頭に記述されている聖徳太子の系譜について、家永三郎は「おそくとも大宝(701-704年)までは下らぬ時期に成立した」として、記紀成立よりも古い資料によるとしている[59]。
天寿国繡帳について大山は天皇号、和風諡号などから推古朝成立を否定している。また、金沢英之は天寿国繡帳の銘文に現れる干支が日本では持統天皇4年(690年)に採用された儀鳳暦(麟徳暦)のものであるとして、制作時期を690年以降とする。一方、大橋一章は図中の服制など、幾つかの理由から推古朝のものとしている[60]。義江明子は1989年に天寿国繡帳の銘文を推古朝成立とみてよいとする[61]。石田尚豊は技法などから8世紀につくるのは不可能とする。
服飾史では、高田倭男は天寿国繍帳に刺繍された男子は丸襟、左衽(さじん)、筒袖、細紐の帯、褶(ひらみ)の服装をしており、女子も上着の裾から褶が見え、その下にロングスカート状の裳(も)を着用していると指摘する[62]。制作時期は太子没後間もない頃とする[62] 。
左衽は右の衽(おくみ)を左の衽の上に重ねる着方で、日本では古来左衽であったが中国では右衽で、左衽は夷狄の着方とされた。日本では719年(養老3年)2月に左衽から右衽に改められた(『続日本紀』)[63]。褶は上衣の裾の下からのぞく襞(ひだ)のある丈の短い巻スカートである。中国の褶は丈の短い上衣のことで、日本とは意味が異なる[64]。天武11年(682年)3月28日の詔において、「親王以下、百寮諸人、今より已後(いご)、位冠及び襅(まえも)、褶、脛裳(はぎもも)著(き)ること莫(な)かれ」と、親王以下百官の褶着用が禁止された[65]。これらは天武朝以来の服制を唐風に改革する風潮のもとに行われた。
武田佐知子・津田大輔は、天寿国繍帳の服装は左衽、褶であるとし、高松塚古墳壁画より古い風俗とする[66]。また襟や袖に付けた別色の縁取りは北周の品色衣を思わせるとする[67]。高田は別色の縁取りは朝鮮半島で襈(せん)と呼ばれていたものではないかと指摘する[62]。
増田美子は高松塚古墳壁画に描かれた男女の上衣の裾には一様に襴(らん)と見られる布を足した線が引かれているが、天寿国繍帳にはないと指摘する[68]。襴は唐の服飾の特徴で、太宗年間(626年-649年)に登場する[69]。日本では、天武13年(684年)4月の詔において、会集の日には襴衣の着用を義務付けた[70]。
また、持統4年(689年)4月の詔で[71]、「上下通じて綺帯と白袴を用い」と、身分の上下とも綺麗な帯と白袴を着用することになり高松塚古墳壁画の男子は白袴を穿いているが[72]、天寿国繍帳の男子は裾が別色の色袴を穿いている。
このように天寿国繍帳の服装は推古朝、遅くとも唐風改革の始まる天武朝より前の服装を表しており、服飾史では制作時期もその頃をするのが通説となっている。
法隆寺釈迦三尊像光背銘文について、大山説が援用する福山敏男説では後世の追刻ではないかとする[73]。一方、1979年に志水正司は「信用してよいとするのが今日の大方の形勢」とする[74]。
法隆寺の依頼で実際に光背銘文を現地調査した東野治之は、銘文が刻まれた面は平滑であり光背の制作段階から文字を刻むスペースとして用意されたことは明らかだとして、「銘文の内容より下る時期の刻入とする論が否定されることはまちがいない」として追刻説を否定する[75]。また、調査に同行した奈良文化財研究所(当時)の渡辺晃宏も同意見であった[75]。したがって、福山が疑問視した光背銘文にある「法興元丗一年」(621年)、「上宮法皇」、「司馬鞍首止利佛師造」といった文言は釈迦像造立当時に刻まれたものである。
この調査は寺史編纂に伴うもので、光背裏面全体を撮影するため、複数のライトによる照明がなされるなど、それまでなかった好条件のもとで行われた[76]。追刻説はこうした好条件のもとでの調査に基づかない説であり、実見しなければ東野等が得たような知見は得られなかったであろうとする[76]。
道後湯岡碑(伊予湯岡碑文)についてはこれまで推古天皇四年に建てたものとされてきた(牧野謙次郎,1938年[注釈 37])。
大山は、道後湯岡碑銘文[77][注釈 38]における法興6年という年号について、法興は『日本書紀』に現れない年号(逸年号、私年号)であり、法隆寺釈迦三尊像光背銘文にも記されていると指摘している[56]。
また大山は仙覚『万葉集註釈』(文永年間(1264年-1275年)頃)と『釈日本紀』(文永11年-正安3年頃(1274年-1301年頃))の引用(伊予国風土記逸文)が初出であるとして、鎌倉時代に捏造されたものとする。一方、荊木美行は伊予国風土記逸文を風土記(和銅6年(713年)官命で編纂)の一部としている[78]。
東野治之は、銘文には伊予を「夷与(いよ)」と記しているが、「イ」に「夷」を当てる表記はきわめて珍しく、通常の万葉仮名では使用されないと指摘する。ほかの例としては、『元興寺縁起』に引く「元興寺丈六光銘」(飛鳥大仏の銘文とみられる)にある「夷波礼瀆辺宮(いわれいけべのみや)」が唯一の例である。したがって、銘文は7世紀の用字を伝えるものであり、法隆寺釈迦三尊光背銘にある法興年号と年立てが合致することも合わせ、碑を推古朝の作と判断してよいとする[79]。
また、東野は銘文の内容が温泉の効用や神仙境的な立地を述べただけで聖徳太子に関係づけておらず、太子礼讃を意図した捏造ならば関係づけるはずだとして捏造説に疑問を呈している[80]。
慶雲3年(706年)に彫られたとされる法起寺塔露盤銘に「上宮太子聖徳皇」とあることについて、大山説では露盤銘が暦仁元年(1238年)頃に顕真が著した『聖徳太子伝私記』にしか見出せないことなどから偽作とする。
但し、大橋一章の研究(2003年)の研究では、嘉禄三年(1227年)に[四天王寺東僧坊の中明が著した『太子伝古今目録抄(四天王寺本)』には「法起寺塔露盤銘云上宮太子聖徳皇壬午年二月廿二日崩云云」と記されている[81]。
また直木孝次郎は『万葉集』と飛鳥・平城京跡の出土木簡における用例の検討から「露盤銘の全文については筆写上の誤りを含めて疑問点はあるであろうが、『聖徳皇』は鎌倉時代の偽作ではない」と述べている[82]。また「日本書紀が成立する14年前に作られた法起寺の塔露盤銘には聖徳皇という言葉があり、書紀で聖徳太子を創作したとする点は疑問。露銘板を偽作とする大山氏の説は推測に頼る所が多く、論証不十分。」と批判している[83]。
『播磨国風土記』(713年-717年頃の成立とされる)印南郡大國里条にある生石神社の「石の宝殿」についての記述に「池之原 原南有作石 形如屋 長二丈 廣一丈五尺 高亦如之 名號曰 大石 傳云 聖徳王御世 厩戸 弓削大連 守屋 所造之石也」(原の南に作石あり。形、屋の如し。長さ二丈(つえ)、廣さ一丈五尺(さか、尺または咫)、高さもかくの如し。名號を大石といふ。傳へていへらく、聖徳の王の御世、弓削の大連の造れる石なり)とある。「弓削大連」は物部守屋、「聖徳王」は厩戸皇子と考えるなら[84]、『播磨国風土記』は物部守屋が大連であった時代を、「聖徳の王(厩戸皇子)の御世」と表現していることになる。また、大宝令の注釈書『古記』(天平10年、738年頃)には上宮太子の諡号を「聖徳王」としたとある。
一般的な呼称の基準ともなる歴史の教科書においては長く「聖徳太子(厩戸皇子)」とされてきた。しかし上記のように存命中の呼称ではないという理由により、たとえば山川出版社の『詳説日本史』では2002年(平成14年)度検定版から「厩戸王(聖徳太子)」に変更されたが、この方針に対して脱・皇国史観の行き過ぎという批判がある[注釈 39][注釈 40][注釈 41]。2013年(平成25年)3月27日付『朝日新聞』[85]によれば、清水書院の高校日本史教科書では2014年(平成26年)度版から、歴史研究者によって指摘されるようになってきた聖徳太子虚構説(従来聖徳太子として語られてきた人物像はあくまで虚構、つまりフィクションである、とする説)をとりあげた(本項「#虚構説」も参照)。歴史家らから(厩戸皇子の存在はともかくとして)「聖徳太子」という呼称の人物像の虚構性を指摘されることは増え、学問的には疑問視されるようになっているので、中学や高校の教科書では「厩戸皇子(聖徳太子)」についてそもそも一切記述しないものが優勢になっている。(わずかに記述される場合でも、少なくとも「聖徳太子」という呼称はカッコの中でしか記述されない)
なお「厩戸王」などとした表記について、「表記が変わると教えづらい」という声があることから、2020年度に小学校へ、2021年度に中学校へ導入される予定の学習指導要領案最終版では、文部科学省は「聖徳太子」に修正するよう検討していたことが報道された[86]。
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