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日本の女優 ウィキペディアから
花柳 はるみ(はなやぎ はるみ、明治29年(1896年)2月24日 - 昭和37年(1962年)10月11日)は、日本の女優である。本名は糟谷 いし(かすや いし)。「築地小劇場」で知られる新劇の女優であり、「日本映画の女優第1号」として知られる。
1896年(明治29年)2月24日、茨城県鹿島郡豊津村大船津(現鹿嶋市大船津)に生まれる。上京し、東京市立麹町高等女学校(現・麹町学園女子高等学校)を卒業。
第一期研究生として、1913年(大正2年)に島村抱月、松井須磨子の「芸術座」に参加、1915年(大正4年)、ツルゲーネフの『その前夜』で舞台女優としてデビュー。
1919年(大正8年)、23歳のとき、「天然色活動写真」(天活)の社員であり、映画評論誌「キネマレコード」同人の映画理論家、帰山教正の実験作『深山の乙女』および『生の輝き』(いずれも現代劇)に、村田実、青山杉作、近藤伊与吉といった新劇の劇団「踏路社」の主要メンバーとともに参加、主演に抜擢される。両作は、同年9月13日に同日公開された。
帰山は第3作『白菊物語』から「映画芸術協会」を名乗り、日本最初の芸術映画プロダクションとして活動を開始[1]。従来の映画界の歌舞伎同様の「女形」を排し、「女優」を初めてスクリーンに映し出したことで、これらの帰山作品は歴史に名を残すこととなる。
映画女優としては帰山監督作3本に主演(1919年 - 1920年)、1920年に村田が根津新とともに移籍していた松竹蒲田撮影所で、1921年、村田の映画監督転向第4作『奉仕の薔薇』に主演、同作は同年7月21日に公開される。また同年、高松豊次郎の「活動写真資料研究会」で山根幹人監督の『収穫』に主演、11月21日に「浅草大東京」ほかで公開する。映画出演はこの5本のみ、すべて無声映画の時代であった。
畑中蓼坡の「新劇協会」に参加、帝国ホテル演芸場などの舞台に立つ。1924年(大正13年)の土方与志と小山内薫の「築地小劇場」に参加。1928年(昭和3年)末の小山内の急逝をもって同劇団は分裂へ向かう。当時デビューした原泉に旧芸名「原泉子」を命名したのははるみである[2]。
またそのころ、愛知県知多郡常滑町(現常滑市)の実業家の瀧田英二と結婚。長男文彦、長女あゆちをもうける。文彦は東京大学仏文科を卒業、のちに同大教養学部教授となり翻訳家としてボリス・ヴィアンやレイモン・クノーの翻訳で知られ、あゆちは東京大学法学部を卒業、日本航空に入社、日本のキャリアウーマンの先駆的な存在となった[3]。
はるみが嫁いだ家は、2000年(平成12年)に市の指定文化財となり、「廻船問屋瀧田家」(常滑市栄町4丁目75番地)として復元、有料公開されている。
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