金子 信雄(かねこ のぶお、1923年〈大正12年〉3月27日[1] - 1995年〈平成7年〉1月20日[2][1])は、日本の俳優・料理研究家・司会者・タレント。妻は丹阿弥谷津子。愛称は「ネコさん」[3]。
概要 かねこ のぶお 金子 信雄, 生年月日 ...
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東京市下谷区(現・東京都台東区谷中)出身[3]。母方の祖父は元彰義隊で[4]、厳しい家系で家族親族からは役者になったことをずっと「河原乞食」と蔑まれていたという[4]。歯科医の家庭に生まれたが[3][4]、小学校1年の時から結核を患っており20歳まで闘病生活を送った。中学から下谷で育った[4]。京華学園卒業。
役者に興味はなく[4]、久保田万太郎直筆の推薦状を持った友人の付き添いで文学座に行ったら[4]、中村伸郎に軽くあしらわれたことに腹を立て[4]、出入りしていた錦町岸の錦橋閣の息子・奥野匡から「もし、やるなら演出部に来い」と言われ[4]、「文学座に行けば女の顔が見れるだろ」と冷やかしで[4]、1943年(昭和18年)に文学座所属俳優として芸能界入りする[2][4]。19歳まで演出部に所属した[3][4]。召集令状が来て戦地に出向いたが、20日くらいで戻る[4]。東京大空襲で自宅は丸焼けし、文学座の劇団疎開に帯同する[4]。終戦の年、1945年(昭和20年)から劇団員となり、翌1946年(昭和21年)から役が付く[4]。同年、成瀬巳喜男監督の『浦島太郎の後裔』で映画デビュー[4]。杉村春子から「金子さんも十二貫か十三貫あればね」と言われるほど痩せすぎでいい役が付かず[4]。家族からの「どうせ信雄は20歳までには死ぬだろう」と思われていたという[4]。森雅之が戦争中に文学座を辞めたことから、段々森の後釜候補と見られるようになった[4]。田村秋子と堀越節子から「森によく似てる」などと言われ[4]、杉村、中村伸郎、三津田健らと文学座の中堅として活躍しはじめた[4]。
ヴィットリオ・デ・シーカ監督のイタリア映画『自転車泥棒』などのネオレアリズモに感銘を受け、サッコ・ヴァンゼッティ事件を題材としたマクスウェル・アンダーソンの戯曲を映画化したアルフレッド・サンテル監督のアメリカ映画「『Winterset』(『目撃者』)みたいな芝居をしよう」と提案したら、杉村から「共産党だからダメよ」と言われ、却下された[4]。当時の文学座はプチブルが多く、芸術至上主義で家族主義[4]。杉村が後に中国に接近したことは面白くなかったという[4]。1952年(昭和27年)、演劇観の違いから文学座を退団し[2]。本田延三郎が岡田英次と木村功をそそのかして作った[4]青年俳優クラブの結成に参加[2][4]。金子自身「私なんかダシになったんだけど」と述べている[4]。青俳は1年で脱退[4]。
以降、ラジオ番組と日活を中心に活躍[4]。民放の出始めの頃でラジオ出演は1本でギャラ30万円[4]、映画のギャラもかなりよく、1950年代ー1960年代で月収80万円くらいあった[4]。独立プロが制作した『人間の條件』に出演し、「作ってる人が変に意識してる」と嫌になり、以降、独立プロが制作の映画は断り続けた[4]。「ぼくは芸術家監督の犠牲者です。芸術家監督が日本映画を亡ぼした。プログラムピクチャーがいいんです」などと述べている[4]。
若い頃から映画・テレビドラマ界では人間臭い悪役として名を馳せ[2]、徹底して脇役、特に憎まれ役を演じることが多かった[3]。1950年代は主に主人公のいけ好かない恋敵や軽薄な男を演じた[3]。1960年代からは、日活全盛期のアクション映画・東映の任侠映画・実録映画で活躍。日活では、主に石原裕次郎や小林旭などの銀幕スターに対抗する敵役を演じた[3]。1970年代になると、ずるくてセコくてスケベな上役を演じるようになり[3]、仁義なき戦いシリーズシリーズでは、小心でずる賢いヤクザの組長役を全5作を通して見事に演じた[2]。一部では、「仁義なき戦いシリーズの陰の主役」とも評された[3]。
1958年(昭和33年)に丹阿彌谷津子と結婚[3]。1966年(昭和41年)に丹阿彌と劇団新演劇人クラブ・マールイを結成し、共同経営者となる。団員には松田優作(のち文学座に入座)、柄本明(自由劇場を経て劇団東京乾電池を結成)などが在籍した[3]。
俳優業以外でも料理研究をライフワークとしており、『うまいものが食べたくて』など食にまつわるエッセイを多数執筆[3]。また1987年(昭和62年)から、朝日放送(ABCテレビ)で自ら考案した料理を披露する番組『金子信雄の楽しい夕食』を放送[2]。金子の料理に加えて、東ちづるが金子にツッコミを入れるなどアシスタントとの絡みも話題を呼んだ[3]。これをまとめた書籍「楽しい夕食シリーズ」(実業之日本社)も発売された。同番組のスポンサー「イカリソース」のCMにも出演したことがあり、同社からタイアップ商品「金子信雄のグルメシェフ」シリーズも発売された。荻窪にかまえたフランス料理店「牡丹亭」のオーナーでもあった。
1995年(平成7年)1月20日午前11時43分、細菌性敗血症のため東京都千代田区の病院で死去。71歳没[5][2]。故人の遺志により通夜と告別式は行わなかった[2]。同月11日から銀座セゾン劇場に出演予定であったが前年暮れに体調を崩したため降板していた[2]。また、『楽しい夕食』は死去以前から同年春で終了する事が決まっており、その矢先の死だったため残る2ヶ月近くの放送分は収録ストック分の消化を経て、番組内で金子が作ったレシピを辻調理師専門学校の講師が改めて作るという形で凌いだ。墓所は八王子市の東京霊園。
- 子供の頃から読書家だったが、偏食家ということもあり虚弱体質だった。刺身、鳥、牛、寿司、鰻丼、親子丼もダメ[4]。学生時代は永井荷風や川端康成の作品を好んで読む病弱な文学青年として過ごす[3]。海兵団に入団するも胸の病にかかり即日帰郷となったが、その後食糧難でその日その日に手に入ったものを食べたおかげで偏食が治った[3]。
- 20歳の頃に文学座に入所すると、先輩たちから“金子(かねこ)”に因んで“ネコちゃん”と呼ばれるようになった[3]。先輩女優で後に妻となった丹阿彌谷津子は後年、「入所した頃の金子は、丸坊主にいつも白絣を着ていて蕗谷虹児の描く挿絵のような青年だった」と回想している[3]。同じく先輩の美男子俳優だった森雅之からは、「俺に似てる奴が入ってきた」と言われ、可愛がられた[3]。また、当時から料理上手で劇団の旅公演で自慢の腕を奮ったことで、先輩の杉村春子などから重宝された[3]。
- 上記の通り料理好きなため、仕事先でも市場へ足を運ぶことがよくあった。ある時、福岡市での仕事が終わってから市場へ出かけたところ、新鮮なサバを見つけたことから「家族と食べよう」と思い、当初予約していた翌日の朝一番の羽田便を急遽キャンセルし、その日の最終便の飛行機で自宅へ戻った。そのキャンセルした便は、1982年(昭和57年)2月9日に羽田沖で発生した日本航空350便墜落事故にあたる便となったため、金子は結果的に難を逃れる形となった。金子が予約していた座席は、特に損傷が激しく死者が多く出た1列目であった。
- 文学座時代の旅公演では劇団用とは別に食材を各地の闇市で仕入れ、東京の物は地方で、地方の物は東京でという風に高く売って生活費の足しにしていた。山本薩夫監督はこの話を面白がり、1952年の映画『真空地帯』で、闇市に横流しする金子軍曹役をあてがった[3]。ちなみに本人は後年、「芝居をやっていなかったら、きっと小佐野賢治みたいな実業家になってた」と語っていたという[3]。
- 川島雄三と新宿を飲み歩く仲だった[4]。仲代達矢は1956年の日活『火の鳥』で、月丘夢路の相手役がおらず、金子が「ザリガニみたいだけど日本人離れして面白いのがいる」と仲代を月丘と井上梅次に推薦し、ブレイクしたという[4]。1964年の山下耕作監督『江戸犯罪帳 黒い爪』(東映)に出演した際、打ち上げを西村晃と二人で新宿のストリップ小屋を貸し切って行ったら、あの松方弘樹がまだうぶでオロオロしていたという[4]。
- 映画『仁義なき戦い』の山守義雄役では、ヤクザの親分ながら人間味溢れる演技で[注 1]人気となった[3]。ちなみに山守の赤っ鼻のメイクは、金子の発案によるもの。当初、同役は三國連太郎が演じる予定だったが、東映の社長・岡田茂は「三國、岡田英次、木村功の出る映画は当たらん」という持論から[4]、「暗い親分はいかん」の一声で急遽金子に決まった[3][4]。また、1974年の舞台『仁義なき戦い』では、企画から関わった[3][4]。
- 1992年放送の深夜番組『EXテレビ』「芸能才人図鑑」のコーナーで金子がゲスト出演し、『仁義なき戦い』の挿話を語った時に劇中における金子扮する山守義雄親分のインパクトが大きく、『山口組三代目』の撮影で出入りしていた山口組三代目・田岡一雄が本作を鑑賞した後、金子の芝居を観て「あら(あれは)、モノホン(本物)だ」という感想をもらしていたことを関係者づてで聞いたことを披露している。また公開当時、新幹線での移動中に金子扮する山守義雄のモデルである山村辰雄の舎弟であった山田久(第五部『仁義なき戦い 完結篇』の登場人物で北大路欣也が演じる松村保のモデル)に遭遇し、大勢の子分を引き連れていた山田から「(子分に対して)お前ら、これが俺の親分だ。あいさつしろ」と車内で紹介されてあいさつされた。金子は「おれもどういう顔をしていいのかわからなかった」と語り、周囲の乗客から好奇のまなざしで見られていたこともあって困惑と恐縮のしきりであったと披露している。
- 役者デビューから数年間は、二枚目路線で活動していたが、1977年の『日本映画俳優全史 男優編』において以下のように評されている。「白面の繊細な若きウェルテルから数年後、日活映画ではすっかり世俗の汚れを身に着けていた」[3]。
- 舞台でも奔放な演技で異彩を放ち、1975年に上演された『喜劇にぎにぎ』では、本番中に共演者の植木等相手にアドリブ演技をしたり色々ないたずらをしていた[3]。
- 本人は演技について、「悪役ってのは一面的じゃないから楽しいんだ。人には必ず他人から見たら滑稽だったり、変に見えるところがある。それを膨らませて演じなきゃならない」と語っていた[3]。一部媒体では、「金子の憎まれ役の演技は現実にいそうな“生きた悪役”であり、それが魅力的だった」とも評されている[3]。次男によると、金子の口癖は「結局、生身の人間が一番面白い」だった[3]。
- 女優の山本陽子によると、1966年に共演したNHKのドラマ『太郎』の会議室のシーンでは、金子は「こんな長いセリフ覚えられねえよ」と言って靴下を脱ぎ始めた。するとカメラに映らないよう床においた台本を、足の指で器用にめくりながら本番に臨んだという[3]。また、山本とはお互いに料理好きなことから、以降共演するたびに食事に誘っては美味しい料理の話題や家での調理方法について会話を楽しんだという[3]。
- 先述の通り、文学好きなことから井伏鱒二とは飲み仲間で、長野県蓼科にあった井伏の別荘にもよく訪れた[3]。また、同世代の司馬遼太郎、池波正太郎とも親交があった[3]。
- 晩年は、次男からパリ土産としてもらったステッキ(柄の部分が“裸で仰向けになって寝そべる女性”を模したもの)を愛用していた[3]。
舞台
- 西郷輝彦特別公演「心をこめてあなたに」「俺は挑戦する」
- 金子信雄プロデュース新演劇公演「仁義なき戦い」(1974年、紀伊国屋ホール)
- 喜劇にぎにぎ(1975年)
- おはん(おはんの叔父役)
- 『腹が鳴る鳴る』講談社、1975年10月8日。NDLJP:12106181。
- うまいものが食べたくて 金子信雄 [著] 講談社 1984(講談社文庫)
- 口八丁手包丁 : 酒飲み自身がつくる肴とお菜十三月 金子信雄 著 実業之日本社 1975
- 金子信雄のうまい料理 : 口八丁手包丁 金子信雄 著 三笠書房 1992(知的生きかた文庫)
- 『新・口八丁手庖丁』作品社、1980年7月25日。NDLJP:12102296。
- ネコさんの好色十三月夜 金子信雄 著 作品社 1982(Hustler book)
- ネコさんの好色十三月夜 金子信雄 著 ベストセラーズ 1985(ワニ文庫)
- 男がつくるスタミナ料理の本 : 頭と体の疲れをとる 金子信雄 著 ベストセラーズ 1982(ワニの本. ベストセラーシリーズ)
- 『ネコさんのスタミナ料理の本 : 頭と体の疲れをとる』ベストセラーズ〈ワニ文庫〉、1986年8月25日。NDLJP:12100696。
- 金子信雄の楽しい夕食 : 食べ上手・作り上手が教えるおいしいお惣菜十二か月 金子信雄 著 実業之日本社 1988
- 金子信雄の楽しい夕食 金子信雄 著 文芸春秋 1991(文春文庫)
- 産地直送大全 : 食をきわめる ふるさと発の新鮮宅配便 グルメに贈る旬味旬菜143 金子信雄, 日之出出版 1989
- 金子信雄の楽しい夕食 : 食べ上手・作り上手が教える四季のおいしいお惣菜 続 金子信雄 著 実業之日本社 1989
- 金子信雄の楽しい夕食 続 金子信雄 著 文芸春秋 1994(文春文庫)
- 金子信雄の楽しい夕食 続続 金子信雄 著 実業之日本社 1990
- 金子信雄の楽しい夕食 part 4 金子信雄 著 実業之日本社 1991
- 金子信雄の楽しい夕食 part 5 金子信雄 著 実業之日本社 1993
- 金子信雄の楽しい夕食 part 6 金子信雄 著 実業之日本社 1994
注釈
具体的には、子分に泣き落としをしてしょげてみせたかと思えば鋭く恫喝する。その場の状況に応じた言動で器用に立ち回り、ヤクザの抗争の中しぶとく生き残る。
出典
週刊現代2022年5月28日号「脇役稼業」第10回・金子信雄「悪い奴ほど面白い」p165-172
高平哲郎「金子信雄インタビュー」『ムービーマガジン Vol.22』1980年5月1日発行、ムービーマガジン社、10-18頁。
“個性派俳優、料理も指南・金子信雄さん死亡”. 読売新聞: p. 31. (1995年1月21日)