顕性院ウィキペディア フリーな encyclopedia 顕性院(けんしょういん、慶長9年(1604年) - 寛永12年6月11日(1635年7月24日))は、江戸時代初期の女性。真田信繁の五女で、出羽亀田藩第2代藩主岩城宣隆の側室、のちに継室。名は、直[1][2]、なほ[3]、あるいは田(でん)[1][4][2]。御田姫(おでんひめ)[3]、御田の方(おでんのかた)[5]とも呼ばれる。顕性院は院号。 子に岩城重隆。同母弟に三好幸信がいるが、これは後に猶子とされた。その他に異母兄弟姉妹に真田幸昌ら10名がいる[注釈 1]。
顕性院(けんしょういん、慶長9年(1604年) - 寛永12年6月11日(1635年7月24日))は、江戸時代初期の女性。真田信繁の五女で、出羽亀田藩第2代藩主岩城宣隆の側室、のちに継室。名は、直[1][2]、なほ[3]、あるいは田(でん)[1][4][2]。御田姫(おでんひめ)[3]、御田の方(おでんのかた)[5]とも呼ばれる。顕性院は院号。 子に岩城重隆。同母弟に三好幸信がいるが、これは後に猶子とされた。その他に異母兄弟姉妹に真田幸昌ら10名がいる[注釈 1]。