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イギリスのレーシングカーデザイナー (1946-) ウィキペディアから
ジョン・バーナード(John Barnard、1946年9月26日 - )はイギリス・イングランド(ロンドン)出身のレーシングカーデザイナー。
ジョン・バーナード John Barnard | |
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John Barnard | |
生誕 |
John Edward Barnard 1946年5月4日(78歳) イングランド ロンドン |
国籍 | イギリス |
業績 | |
専門分野 |
レーシングカーデザイナー エアロダイナミシスト エンジニア テクニカル・ディレクター |
設計 |
マクラーレン MP4/1 フェラーリ・640 ベネトン・B191 など |
成果 |
セミオートマチックトランスミッションの導入 初の炭素繊維複合材料モノコック コークボトルコンセプト |
F1における偉大な技術的先駆者として広く認知されており、車体後部の絞り込みコークボトルラインなどの新しいデザイン、セミオートマチック・ギアボックス、車体製作におけるカーボンファイバーなどを導入したとして評価されている。
バーナードは1960年代にワトフォード工科大学を卒業したが、同期の人間とは違ってその後の長い学術生活を過ごすことなく、英国GECに入社した。
1968年、バーナードは英国ハンチンドンにあるローラ社に下級デザイナーとして採用され、フォーミュラ・ヴィーなど様々なスポーツカーを含む、多くの車体製作プロジェクトで働き始めた。この時期、バーナードは後にウィリアムズF1チームの創設に関わることになるパトリック・ヘッドと職場を共にし、同年生まれの2人のエンジニアは良き友人となり、ヘッドは1970年初期にバーナードが結婚した際には花婿付添人にもなった。
1972年、バーナードはマクラーレンに加入し、ゴードン・コパックとともに3年間働いた。この間、チャンピオンマシンとなったM23シャシーやインディカー用シャシーなど、マクラーレンの様々なプロジェクトの設計に携わった。
1975年までにはバーナードはパーネリ・ジョーンズに引き抜かれ、F1新参チームであるヴェルズ・パーネリ・ジョーンズ・レーシングのためにF1マシンを製作することを求められたが、その後チームがインディカーに転向することを決めたために結局インディカー用シャシーを設計した。その後もインディカーの設計を続け、1980年にバーナードの設計したシャパラル・2Kはジョニー・ラザフォードによってインディ500とインディカーの年間ドライバーズタイトルを獲得した。
米国での成功によって、バーナードは新たにマクラーレンの総帥となったロン・デニスの興味を惹くこととなり、1980年には同チームに加入してF1初のカーボンファイバー・コンポジット製シャーシであるMP4/1の設計を始めた。MP4/1シャーシは米国のハーキュリーズ・エアロスペース社で製作され、その新次元の頑健さとドライバー保護の観点から、すぐさまF1の車体デザインに革命を起こすことになった。数ヶ月の間にデザインは多くのライバルたちにコピーされた。1983年にバーナードは、現在でも見られるようなサイドポッドのボトルネック形状(コカ・コーラのボトル形状に似ていることから、俗に「コークボトル」形状と呼ばれる)を初めて導入した。また、TAG・ポルシェのターボエンジン搭載に当たっては開発段階から仔細なリクエストを送り、シャーシとエンジンをトータルパッケージで開発する現在のトレンドを先取りした。
マクラーレン在籍時にチームはF1でのトップチームとなり、1984年、1985年、1986年と続けてドライバーズチャンピオンを獲得した。また、1984年と1985年にはコンストラクターズチャンピオンとなるが、1986年にはウィリアムズに敗れた。バーナードは1987年シーズン用マシン・MP4/3の設計を終えた後、1987年シーズンからはマクラーレンを離脱することになるが、バーナードのデザインした車はマクラーレンにグランプリ31勝を与えることになった。
1986年、デニスとの間に意見の対立が生まれたため、バーナードはデザイナー引退やBMWへの移籍を模索したが、結局同年末にフェラーリの誘いに応じることになった。フェラーリは1985年-1986年の2シーズンで通算2勝と成績が低迷しており、バーナードは契約のために希望条件を指定することができた。故郷イングランドにデザインオフィスを準備するための巨額の資金を得て、彼はフェラーリ・ギルドフォード・テクニカルオフィス(GTO)を設立し、フェラーリが再び常勝チームに返り咲くための活動を始めた。これは彼自身がイングランドを離れたくなかったことに加え、高度化するレース用部品を確保するためにはイングランドに技術的拠点を置くべきだという信念によるものである。GTOではグスタフ・ブルナーが残した1987年シーズン向けのF187シャシーを製作・改良する一方で、1988年シーズンを見越した自然吸気エンジン搭載のF188(639)の基礎開発も行われた。イタリアに送られたF187シャシーは、さらにハーベイ・ポスルスウェイトによる改良も加えられ、ゲルハルト・ベルガーがシーズン最後の2戦で連勝を飾った。
1988年にはバーナード加入の効果が現れると期待され、フェラーリの前評判は上々だった。しかし実際にはチーム内部が二分され、バーナードが推進していた自然吸気エンジン搭載車ではなく、ターボエンジン搭載のF187をポスルスウェイトが改良する形でシーズンを迎えることになった。しかし、マクラーレンでのバーナードの後任であったゴードン・マレーが設計したMP4/4シャシーによって、マクラーレンがシーズンを席巻した。7月にはポスルスウェイトがティレルへと移籍し[1]、バーナードが現場をも含めた技術責任者となった。8月に総帥エンツォ・フェラーリが90歳でその生涯を閉じ、9月のイタリアグランプリでフェラーリは幸運な2年ぶりとなるF1勝利を挙げた。
1989年、バーナードは電子制御式ギアシフト機構(現在、セミオートマチック・ギアボックスとして知られる)をフェラーリ・640で初めて実戦導入した。これはステアリングホイールの裏にある2つのパドルで操作するものであった。この革新的なシステムはレースに使用するにはあまりにも脆弱であると考えられ、ほとんど期待されていなかったが、ナイジェル・マンセルはリオで行われた同年の開幕戦で優勝を遂げた。バーナードは2度目の技術革新を先導することとなり、1995年までにはすべてのチームがこのギアボックスをコピーした。1989年シーズンにさらに2勝を追加し、チームには勢いがあるように思われた。負の側面として第2戦サンマリノGPでベルガーの乗る640のフロントウイングトラブルによりクラッシュ・炎上する事故が発生し、「イモラでのベルガーのアクシデントで、もし彼がもっと重傷でそのキャリアを絶つようなことになっていたら、私は即座にレースの世界から引退していた。かなりショックを受けた。」と述べている。
同年春からはフィアットのテコ入れによりチェーザレ・フィオリオがフェラーリF1をマネージメントする体制になると、バーナードは当初フェラーリから認められていたイングランドでの作業ではなく、レースへの帯同やイタリアを拠点とした活動を求められる[2]。フィオリオによりチームのイタリア化が推進され、ルーツをイタリアに持つアルゼンチン出身デザイナーのエンリケ・スカラブローニを獲得するなど、バーナードとフィオリオは対立[3]。1989年シーズン閉幕を待たずにスペイングランプリ会場にてベネトンに5年契約で移籍することが発表され、ベネトンでバーナードによるマシンが走るのは1991年からとなることも発表された[4]。ちなみにバーナードのフェラーリ離脱と同時にGTOはマクラーレンに売却され、マクラーレン・F1を製造するファクトリーとして転用された後、同車のデザイナーであるゴードン・マレーの手に渡っている[5]。
1990年、バーナードはベネトンでロリー・バーンをチーフとするベネトン・デザインチームが設計したB190[6]を、バーナード率いるB191の先行開発グループが協力して開発を加える体制となった[7]。B190でバーナードの影響が出ている部分は、これまでバーン作のベネトンの特徴であった大型の1枚型フロントウィングが廃され、メインウィングと角度調節が可能な小型フラップで構成されるコンベンショナルな2段タイプとなり、前作B189での弱点だったフロントの神経質な特性に対してセッティング変更での対応がしやすい方向へと舵が切られた点がバーナードの合理的な思想によるものであった[6]。バーンは同年夏にパット・シモンズらと共にベネトンを去りレイナードのF1プロジェクトへと移籍した[8]。
一方、バーナードが去ったフェラーリにはアラン・プロストが加入。ベルガーは入れ替わるようにマクラーレンへと移籍し結果的にトレードのような形になっていた[9]。1990年のフェラーリはすべてがうまく動いているように見え、バーナードがデザインした640を元に、スティーブ・ニコルズとスカラブローニが改良した641/2シャシーはプロストに5勝をもたらしたものの、ドライバーズ・コンストラクターズの両タイトルはまたしてもマクラーレンに奪われた。
1991年、バーナードの設計したB191は、ピケの手によってわずか1勝を挙げるに留まったが、このマシンでまたしてもF1に新たな革新をもたらした。B191は、ハイノーズからステーで吊り下げる方式でフロント・ウイングを支持する最初のF1マシンであった(ハイノーズ自体の初採用は、前述の内紛で先にフェラーリを放出されたポスルスウェイトによる1990年のティレル・019だが、吊り下げ型フロントウィングはB191が初となる)。セミオートマチック・ギアボックスやカーボンファイバーに比べると浸透速度は緩やかではあったが、1996年までにはすべてのF1マシンが吊り下げ型ハイノーズデザインをコピーして採用した。しかしバーナードはベネトンのマネージャーであったフラビオ・ブリアトーレとの間で金銭面の論争が発生し、1991年半ばにベネトン・フォーミュラを去った。
日の目を見なかった(最初の)トヨタF1プロジェクト(正確にはトムスによるプロジェクト。詳しくはプロスト・グランプリを参照)で短期間働いた後、バーナードは1992年中ごろにフェラーリに戻った。当時、フェラーリは再びスランプに陥っていて、彼が一旦去ってから2年の間に1勝さえ挙げることができていなかった。バーナードは再び望む条件を示し、前述の通りGTOが既に売却されていたため、英国・サリーに新たなテクニカルオフィスであるフェラーリ・デザイン・アンド・デベロップメント(FDD)を設立した。
このオフィスにおいてバーナードは、かつてフェラーリお抱えドライバーであったゲルハルト・ベルガーによってついにフェラーリを表彰台の中央に戻すこととなる、412T1シャシーの設計を始めた(なお、ベルガーが優勝したマシン412T1Bはグスタフ・ブルナーによって改良され、シーズン途中のフランスGPから投入されたマシンである)。
バーナードは4シーズンにわたって、フェラーリのF1マシンのデザインを続けた。しかし、1990年代中盤からはエアロダイナミクスがより重視される時代となり、バーナードの手がけたマシンは時代についていけなくなりつつあった。ジャン・アレジがそのキャリア唯一となるF1勝利を挙げ、またグランプリにおいて「最後に勝利したローノーズマシン」(ウィリアムズ・ベネトンはハイノーズであり、トレンドに反していた)となった412T2シャシーも含まれている。
1996年には、フェラーリ内部で大きな変化が起きつつあった。ベルガーとアレジの契約を更新せず、現役チャンピオンであったミハエル・シューマッハをファースト・ドライバーとして引き入れ、さらにチームマネージャのジャン・トッドはマラネロにデザインオフィスの建設を始めた。しかも、1996年のマシンF310は、他のチームがノーズの左右両端でフロントウイングを吊り下げるニ点支持ハイノーズの中、アリクイ型の一点支持ハイノーズ、F92Aのような戦闘機風のサイドポンツーン形状、巨大なヘッドプロテクターなど空力に大きなハンデを抱え、信頼性も欠如していたことからシーズン当初から不振が続き、2年前と同じくグスタフ・ブルナーによる大幅な改造が施された。3勝を挙げたがそれはシューマッハとチーム戦略によるものであり、シーズン終了後、シューマッハは「見るのも嫌なマシンだった」と述べている。バーナードはイタリアへの転居を望まなかったため、1997年のF310Bがバーナードのフェラーリにおける最後の仕事となり、ロリー・バーンが後任に就いた。
1997年4月[10]にはFDDをフェラーリから買収して「B3テクノロジーズ」と名称変更し、これでバーナードとフェラーリの関係は終わりを告げた。バーナードのフェラーリ離脱後ではあるが、F310Bはミハエル・シューマッハにより1997年日本GPで優勝。バーナードの設計したシャシーによるF1最後の勝利となった。
同1997年途中にアロウズF1チームへ加入し、開幕戦オーストラリアGPではあわや予選落ちの危機[注 1]にさえあったA18を改良、デイモン・ヒルがハンガリーGPで惜しくも優勝を逃すものの2位を獲得するなどの開発力を見せた。
1998年、B3テクノロジーズはアロウズF1チームのためにマシンを設計。バーナードは「トム・ウォーキンショーはアロウズで本気で王座に就くつもりでいるし、私も精一杯手助けする。しかしアロウズは20年間も中堅にいたためか、負け癖が身についてしまっている。スタッフには生産性に関する新しい基準を示し、その負け癖を消していくのも私の任務だと思っている。」と意欲を示し、新技術であるオールカーボンファイバー製ギアボックスの設計に注力。これをA19に組み込む構想などさらなる技術革新を目指しており、「この新しいオールカーボンギアボックスは軽量・コンパクトで剛性も従来より高い。私のやり方は確かにリスクがあるが、いつかはスタンダードになって来たという自負もある。この新技術の優位性が認められ、全てのコンストラクターが認める日がやってくると思う。」と自信を述べていた[11]。
しかし、プロストチームもまた研究開発を同社に委託する契約を結んでいたため、議論が勃発した。結局、バーナードは2002年にプロスト・グランプリが消滅するまで技術コンサルタントとして働いた。
その後、彼はオートバイレースの分野に転向し、2002年、モトGPに参戦するケニー・ロバーツ率いるプロトン・チームKRのテクニカル・ディレクターに就任し[12]、プロトン・KR5を開発した。日本人ライダーでは青木宣篤がKR5をライドしている。しかしプロトン側の資金面の問題で2005年シーズン限りでモトGPからの撤退を余儀なくされ[注 2]、以後はレース界の現場から離れた。
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