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エストレ公ルイ・シャルル・セザール・ル・テリエ(フランス語: Louis Charles César Le Tellier, duc d'Estrées、1695年7月2日 - 1771年1月2日)は、フランス王国の軍人。1757年にフランス元帥に叙された。
ルーヴォワ侯爵フランソワ=ミシェル・ル・テリエの息子でクルトンヴォー伯爵のミシェル・フランソワ・ル・テリエ(1663年 - 1721年)とジャン2世・デストレ(1624年 - 1707年)の娘マリー・アンヌ・デストレ(1741年没)の間で生まれた。母のマリー・アンヌはフランス元帥ヴィクトル=マリー・デストレの妹であった。
騎兵中将として、1745年のフォントノワの戦いで頭角を現した。1757年2月24日にフランス元帥に叙された後、七年戦争でヴェストファーレン方面軍を指揮した。同年7月26日のハステンベックの戦いでカンバーランド公ウィリアム・オーガスタス率いるハノーファー・ヘッセン連合軍に勝利したが、直後に更迭された。
1759年にフランス軍がミンデンの戦いで敗れると、ル・テリエはドイツにいるフランス軍の調査を命じられた。その後、軍務に呼び戻されたが、1762年のヴィルヘルムスタールの戦いで敗北した。
1746年に聖霊勲章を授与され、1763年に母方の家族からエストレ公位を継承した。
1736年、フリーメイソンに加入した。
ル・テリエは2度結婚した。1度目の妻はアンヌ・カトリーヌ・ド・シャンパーニュ・ラ・スーズ(Anne Catherine de Champagne La Suze)で、2度目の妻はアデライド・フェリシテ・ド・ブルラー・ド・シレリー・ド・プイシュー(Adélaïde Félicité de Brûlart de Sillery de Puysieux)であった。
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