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戦国時代初期の丹後の武将、守護大名。一色義遠の嫡男。左京大夫。室町幕府 丹後守護。丹後一色氏7代 ウィキペディアから
義有は丹後の一色氏が一色義秀の自害をもって絶えたため、その跡を継いで一色氏の当主となった[3][注釈 1]。しかし国内は守護代延永春信・石川直経を初めとする国人による内乱が相次ぎ、混乱を極めた。
永正2年(1505年)に丹後守護に補任されたが、翌永正3年(1506年)に幕府の管領である細川政元により解任、政元の命を受けて丹後に侵攻した細川澄之、細川澄元、細川政賢、赤沢朝経、三好之長、香西元長及び武田元信らと合戦を繰り広げた。義有は今熊野城に、延永春信は阿弥陀ヶ峰城に、石川直経は加悦城にそれぞれ籠り防戦する。翌永正4年(1507年)に戦いは継続され、府中(現在の宮津市)が戦火に遭うなどの被害があったが、丹後方は包囲に持ちこたえていた。
その最中に政元が4月に京都へ戻り、澄之と香西元長も5月に直経と和睦して京都へ引き上げ、6月に政元を暗殺する(永正の錯乱)事件が発生する。細川軍は義有と和睦を結び撤退を図ったが、直経がその隙を突いてこれを撃退、赤沢朝経らを討ち取り武田軍を打ち破った(追撃は直経の独断専行とされる)。永正5年(1508年)に義有は丹後守護に再任、永正7年(1510年)に将軍足利義尹(後の義稙)に太刀・馬を送り、永正8年(1511年)には上洛して義尹に軍忠に励んだが、永正9年(1512年)に病死、享年26。
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