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永正

日本の元号 (1504–1521) ウィキペディアから

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永正えいしょうは、日本元号の一つ。文亀の後、大永の前。1504年から1521年までの期間を指す。この時代の天皇後柏原天皇室町幕府将軍は足利義澄足利義稙

改元

出典

周易緯』の「永正其道、咸受吉化、徳弘(施)四海、能継天道」から。勘申者は式部大輔菅原長直

永正期におきた出来事

要約
視点

[1]

元年(1504年
2年(1505年
3年(1506年
4年(1507年
これを機に、政元の養子(澄之澄元高国)による家督争いに加え、大内義興を味方につけた足利義尹の将軍復職活動が盛んになる。
5年(1508年
  • 3月17日(4月17日) - 細川高国、澄元に対抗すべく足利義尹・大内義興の連合との合流を目論み、京都を出奔。翌月、足利義澄将軍・澄元派は大内上洛軍との対峙を危ぶみ、近江甲賀郡へ退避。
  • 7月1日(7月28日)- 京都帰還を果たした足利義尹、将軍職に再任さる。並びに、高国は管領に、大内義興は管領代に任じられる。のちに義尹は義稙に改名、高国も澄元から剥奪した細川京兆家の家督継承を認められた。
  • 三河の設楽郡に長篠城が築かれる。
6年(1509年
7年(1510年
8年(1511年
9年(1512年
10年(1513年)
11年(1514年
13年(1516年
15年(1518年
  • 8月2日(9月6日) - 幕府管領代の大内義興、本国へ帰還する。
16年(1519年
  • 細川澄元、高国打倒のため阿波で再起。三好之長を中核とする軍勢で摂津に進駐。
17年(1520年
  • 2月 - 細川高国、仇敵の澄元軍に敗れて近江坂本へ退去。
  • 3月7日3月25日) - 熊野で大地震。那智・熊野の堂舎破損し、民家津波に流失。
  • 5月 - 朝倉氏土岐氏六角氏などの支援を得た高国軍、反撃の京都再攻(等持院の戦い)。澄元は敗れて摂津へ撤退、三好之長は自害。
  • 6月10日(6月24日) - 細川澄元、生国の阿波勝端城にて死去。
これにより細川氏の管領職争いが一時沈静化する。
18年(1521年
  • 2月12日 高野山大火。寺院より出火、大塔、金堂以下伽藍300余宇・塔婆19基、僧坊など3900余宇を焼失し、全山壊滅状態となる。
  • 3月7日(4月13日) - 細川高国との確執を深めた足利義稙、京都から出奔。
  • 3月22日(4月28日) - 後柏原天皇即位式典、即位21年を経てようやく挙行される。
  • 7月6日(8月8日) - 足利義澄の遺児で備前守護代浦上村宗の庇護下にあった足利亀王丸、高国に迎えられ、入洛を果たす。

出生

死去

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西暦との対照表

要約
視点

※は小の月を示す。

さらに見る 永正元年(甲子), 一月※ ...
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脚注

関連項目

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