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北涼(ほくりょう、397年5月 - 439年9月)は、五胡十六国時代に甘粛省に存在した国。建国者は段業だが、実質的な創始者は盧水胡の沮渠蒙遜である。国号は涼(りょう)。
北涼の実質的な建国者である沮渠蒙遜ははじめ後涼に属しており、匈奴系であるとも月氏系であるともいわれ諸説存在する。
397年4月、後涼の天王呂光は西秦討伐に失敗し、その責任を尚書の沮渠羅仇と三河郡太守の沮渠麹粥兄弟に取らせて処刑した[4]。これに激怒した兄弟の甥である沮渠蒙遜は2人の葬儀の際に集結した一族万余を前にして後涼からの自立を宣言し、臨松郡(現在の甘粛省民楽県)を陥落させて金山に駐屯した[4]。これに対して呂光は討伐軍を送り、沮渠蒙遜は敗北したが、酒泉に駐屯していた沮渠蒙遜の従兄の沮渠男成が呼応して勢いを取り戻し、5月には楽涫に迫って後涼から建康郡太守に任命されていた漢族の段業を涼州牧・建康公に擁立して神璽と建元し、事実上の北涼建国を成し遂げた[4]。建国者は擁立された段業だが、実質的な権力は沮渠蒙遜と沮渠男成の両者が掌握した[5]。
沮渠蒙遜は398年4月に西郡(現在の甘粛省永昌県・山丹県)や晋昌郡(現在の甘粛省瓜州県・玉門市)・敦煌郡などを陥落させ、6月には沮渠男成が張掖を落とし、ここを北涼の首都とした[5]。こうして北涼は後涼の西部をほぼ支配下に置くことになり、段業は399年2月に涼王を称した[5]。
400年11月、北涼の漢人で敦煌郡太守であった李暠が自立して西涼を建国したため、北涼は西部の領土失陥と漢人の離反が進むことになった[5]。さらに段業と沮渠蒙遜との間で対立が発生し、沮渠男成が段業を支持したため、沮渠蒙遜は401年4月に沮渠男成に謀反の罪ありとでっちあげて段業に殺害させ、さらにその後弔い合戦として段業をも葬り、6月に沮渠蒙遜は涼州牧・張掖公として北涼の君主となった[5]。
だが西涼の自立で北涼の領域はかなり限定的な上[6]、周辺には後涼や北魏・南涼などが控え[6]、さらに段業や沮渠男成ら実力者を葬ったためにその実力はかなり衰えており、北涼の存続には外交が欠かせなくなった。沮渠蒙遜はまず南涼と同盟を結ぶが、401年7月に後秦が後涼を攻撃するとその圧力を恐れて使者を派遣して従属し、後涼が滅亡した直後の403年8月には後秦の沙州刺史・西海侯に封じられて自ら後秦の藩を称して南涼や西涼と対立した[6]。その内の南涼とは406年・407年・409年と連年にわたって戦い、410年3月には遂に南涼の首都姑臧を包囲したが、この時には姑臧を落とせずに撤退し、411年1月に姑臧を落として412年10月に遷都した[6]。沮渠蒙遜は南涼をその後も圧迫し、南涼は最終的に414年に西秦が滅ぼしたが、この南涼と連携していた西涼に対して今度は圧力をかけ、417年2月に李暠が死去した混乱にも恵まれて、4月から大規模な攻勢をかけて420年7月に酒泉を落とし、421年3月までに西涼を滅ぼして敦煌を取り戻した[6][7]。こうして北涼は河西全土を支配する強国となり、以後は西域諸国とも交易・交渉を行って全盛期を迎える[6]。
しかし南涼の滅亡により西秦との対立が開始され、西秦が北魏と結ぶと北涼は夏と結んで対立した[6]。西涼を滅ぼした沮渠蒙遜は主力軍を西秦に向け、421年6月と422年7月には大規模な西秦攻撃を行うも撃退された[8]。逆に424年に北魏との連携を強化した西秦に攻められたため、沮渠蒙遜は夏の年号を奉じて服属する事でその支援を得たため、何とか西秦の攻勢を防いだ[8]。一方で沮渠蒙遜は江南の東晋に418年に従属して涼州刺史に任命され、南朝宋にも服属して422年に涼州刺史・張掖公、423年に涼州牧・河西王と江南王朝の官爵を得る事で北魏など周辺諸国と対抗した[8]。
だが431年に西秦・夏が相次いで滅亡すると北涼は北魏の圧力をもろに受け始める事になり、沮渠蒙遜は8月に息子の沮渠安周を北魏に入侍させて北魏に事実上従属した[9]。以後、北涼は江南外交から北魏外交に転換し、北魏も南朝宋との関係から北涼を厚遇して沮渠蒙遜は北魏より涼州牧・涼王に封じられた[9]。433年4月に沮渠蒙遜は病死した[9]。
沮渠蒙遜が死去すると、北魏はその葬儀を監護する使者を派遣した上、北涼の後継者には南朝宋が認めた沮渠菩提を廃してその兄である沮渠牧犍を擁立するなど、すでに北魏の内政干渉をもろに受ける立場にまで追い込まれていた[9]。沮渠牧犍は文物を南朝宋に送る[10]など文治を盛んにした。一方で北涼は沮渠牧犍の妹を北魏皇帝の太武帝に入嫁させ、太武帝の妹の武威公主を北涼に入嫁させるという二重の通婚関係を結ぶなど強い友好関係を結んだ[9]。
439年9月、華北統一を目指す北魏の太武帝は親征して北涼の首都姑臧に迫り、その圧力に屈した沮渠牧犍は北魏に降伏し、北涼は滅亡した[9]。
北涼君主の沮渠牧犍は北魏の首都平城に送られ、447年に謀反の罪で自殺を命じられた[9]。
北涼滅亡後、沮渠牧犍の弟である沮渠無諱と沮渠安周は442年9月に酒泉・敦煌・高昌と西遷して自立し、高昌北涼を建国した[9][11]。沮渠氏は河西王として南朝宋に封ぜられるが、沮渠氏が西遷するまで高昌を支配していた唐契の一族が結んでいた柔然が高昌に来寇したため、高昌北涼は2代で滅亡したが、高昌国自体は唐に支配されるまでの約200年間にわたり続いた[9][11]。
以下、高昌北涼
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