Loading AI tools
日本の歌舞伎俳優 ウィキペディアから
五代目 中村 富十郎(ごだいめ なかむら とみじゅうろう、1929年(昭和4年)6月4日 - 2011年(平成23年)1月3日)は、歌舞伎役者。屋号は天王寺屋。定紋は八本矢車。日本芸術院会員、重要無形文化財保持者(人間国宝)。
本名は渡邊 一[2](わたなべ はじめ[3])。父は四代目中村富十郎、母は日本舞踊吾妻流家元の初代吾妻徳穂。正四位と旭日重光章追贈[4]。
生前は随一の立方、踊りの名手として知られた。若年時、上方を中心に活躍した際には、二代目中村扇雀とともに、その美貌から「扇鶴コンビ」と呼ばれ人気を博した。この時期には武智歌舞伎にも参加し、ここで積極的に実験的な手法に触れ、古典の品格や解釈を学んだことは大きい。加えて、終戦後母と共にアヅマ・カブキとして日本舞踊の欧米公演を行ったことは、富十郎自身が語るように、その芸に有形無形の影響を与えている。
一方で東京に出てからは、十五代目羽左衛門系の颯爽とした芸系とともに、二代目尾上松緑に師事して六代目尾上菊五郎の写実的な世話物の系統、また松緑が得意とした荒事や舞踏にいたるまで広く学んだ。平成に入ってからは四代目中村雀右衛門との名コンビを謳われて『二人椀久』などの傑作を残している。
当り役は数多いが、特に初代が初演した『京鹿子娘道成寺』にはお家芸としての特別な自覚があり、五代目富十郎襲名興行でも伝統に則ってこれを務めているが、2003年のNHK古典芸能鑑賞会において実質踊り収めをしている。その芸については、ほとんど当代の役者を褒めなかった池波正太郎が絶賛していたことでもその品の良さの一端を窺い知ることが出来た。
富十郎が「市村竹之丞」を六代目として襲名する際には一悶着あった。「市村竹之丞」は、かつては江戸三座のひとつ市村座の座元を兼ねる市村宗家の名跡であり、過去には「市村羽左衛門」とほぼ同等の重きをなす橘屋ゆかりの名跡である。いくら富十郎が十五代目市村羽左衛門の孫でも直系ではない外孫であるため、襲名を不服に思う十七代目市村羽左衛門は襲名披露興行の口上で「本来ならば、竹之丞の名跡を継ぐべき人ではない」と挨拶。必ずしも晴れの舞台にはふさわしいとはいえないこの発言は物議を醸した[注 1]。
喜劇役者の伊東四朗の回想にて、まだ駆け出しだった頃の伊東が二代目尾上松緑に芝居の台本を持ち込み教えを請うべく歌舞伎座へ訪れた折、楽屋に通され、松緑から「おい、この若い人に女形について教えてやんなさい」と話を振られて、伊東に当時四代目鶴之助と名乗っていた富十郎が女形についての講釈をしてくれたという[11][12]。
富十郎は1996年1月17日に33歳年下の元女優:久邇瑳代子こと橋爪正恵(当時33歳)と結婚、1999年には長男・大が、2003年には長女・愛子が生れた。富十郎69歳と74歳のときの子であるところから、これは大きな話題にもなった。
なお、これ以前にも2回結婚し、竹之丞時代の1967年(昭和42年)に息子が「市村録太郎」(十五代目羽左衛門の本名から取った芸名)として初舞台を踏んでいる[13]が、これに際し録太郎を十六代目羽左衛門未亡人の養子とし[14]、自らはその後見役となり前述の十七代目羽左衛門と同座して初舞台の場に臨んだ。この息子は既に廃業している。
瑳代子との間の長男・大は2001年(平成13年)に中村大を名乗って初舞台を踏み、2005年(平成17年)11月に中村鷹之資と改名した。大向うから「豆天王」「若天王」などと掛け声がかかるこの鷹之資に、富十郎は20歳になった折に「富十郎」の名跡を譲ることを生前に公言していた。天王寺屋の跡取りは鷹之資、橘屋の系統は十七代目の次男・二代目市村萬次郎一家と十七代目市村家橘のみとなっている。
晩年は二代目中村吉右衛門一座の上置きとなっており、吉右衛門は鷹之資の後ろ盾にもなっている。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.