夢窓疎石
室町時代初期の臨済宗の禅僧。 / ウィキペディア フリーな encyclopedia
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夢窓疎石(むそう そせき)は、鎌倉時代末から南北朝時代、室町時代初期にかけての臨済宗の禅僧・作庭家・漢詩人・歌人。別名を木訥叟[1]。尊称は七朝帝師(しちちょうていし)。宇多天皇9世孫を称する[注釈 1]。建仁寺の無隠円範らに学んだ後、元の渡来僧の一山一寧門下の首座となったものの印可に至らず、のち浄智寺の高峰顕日の法を嗣ぐ。夢窓派の祖[2]。
夢窓疎石 | |
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建治元年 - 正平6年/観応2年9月30日 1275年 - 1351年10月20日 | |
夢窓疎石像 無等周位筆 自賛(14世紀、妙智院蔵、重要文化財) | |
法名 | (法諱)智曤→疎石 |
号 |
(道号)夢想 (雅号)木訥叟 (国師号)夢窓国師、正覚国師、心宗国師 |
諡号 | 普済国師、玄猷国師、仏統国師、大円国師 |
尊称 | 七朝帝師 |
生地 | 伊勢国(三重県) |
宗旨 | 臨済宗 |
宗派 | 夢想派 |
寺院 | 臨川寺、西芳寺、天龍寺 |
師 | 無隠円範、無及徳詮、葦航道然、桃渓徳悟、痴鈍空性、一山一寧、高峰顕日 |
弟子 | 無極志玄、春屋妙葩、竜湫周沢、義堂周信、絶海中津、観中中諦、鉄舟徳済 |
著作 | 『夢中問答集』 |
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後醍醐天皇にその才覚を見い出されて尊崇を受け、「夢窓国師」の国師号を下賜された。以降、入滅後も含めると計7度の国師号を授与され、後世には七朝帝師と称えられる。禅風においては純粋禅ではなく[注釈 2]、日本の伝統的仏教である天台宗や真言宗とも親和性の高い折衷主義的な試みを行った[2]。そのため、臨済禅の主流派(応燈関派)にこそなれなかったものの、幅広い層からの支持を受けた。たとえば、後醍醐に続き、武家である室町幕府初代将軍の足利尊氏・直義兄弟からも崇敬された。足利尊氏により全国に設立された安国寺・利生塔も夢窓疎石の勧めであったとされる。足利直義との対話を記録した『夢中問答集』は、信心の基本、仏道の要諦を指し示す、思想史上重要な書である。
禅僧としての業績の他、禅庭・枯山水の完成者として世界史上最高の作庭家の一人であり、天龍寺庭園と西芳寺庭園が「古都京都の文化財」の一部として世界遺産に登録されている。夢窓疎石の禅庭は、二条良基の連歌・歌論や世阿弥の猿楽(能楽)とともに、わび・さび・幽玄として以降の日本における美の基準を形成した。後醍醐帝の鎮魂のために建立された天龍寺の造営にあたっては、直義との協議のもと元に天龍寺船を派遣してその儲けによって造営費用を捻出するなど、商売人としての才覚もあった。さらに、五山文学の有力漢詩人であり、和歌においても勅撰和歌集に11首が入集するなど、文学史上でも足跡を残している。