尊良親王
鎌倉時代後期から南北朝時代の皇族・歌人。後醍醐天皇の第一皇子。中務卿、一品親王、上将軍。 / ウィキペディア フリーな encyclopedia
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尊良親王(たかよししんのう[注釈 1])は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての皇族・歌人・上将軍。一品中務卿親王(いっぽんなかつかさきょうしんのう)とも呼ばれる[1]。後醍醐天皇第一皇子。母は二条為世の娘で二条派を代表する歌人の二条為子。瓊子内親王および征夷大将軍宗良親王の同母兄。
概要 尊良親王, 続柄 ...
尊良親王 | |
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続柄 | 後醍醐天皇一宮(第一皇子) |
全名 | 尊良(たかよし[注釈 1]) |
身位 | 一品・親王 |
敬称 | 殿下 |
出生 |
徳治年間(1306年 - 1308年)? |
死去 |
延元2年/建武4年3月6日(1337年4月7日) 日本 越前国金ヶ崎城 |
埋葬 |
治定:京都市左京区尊良親王墓 伝:福井県敦賀市金ヶ崎町尊良親王御陵墓見込地 |
配偶者 | 御匣殿(西園寺公顕女) |
大納言典侍(二条為世女) | |
子女 | 男子(守永親王?)、女子 |
父親 | 後醍醐天皇 |
母親 | 二条為子 |
役職 |
中務卿(1326–?) 上将軍(1335–1337) |
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嘉暦元年(1326年)、従兄弟に当たる皇太子邦良親王が急逝したため、現任天皇の第一皇子として、父帝の推薦によって次の皇太子候補者に選ばれる。しかし持明院統との政争に敗北し、次の皇太子になったのは量仁親王(のちの光厳天皇)だった。その後は後醍醐後継者の地位こそ、高貴な生母を持ちより政治的資質のある異母弟の世良親王に移るものの、引き継ぎ後醍醐朝の有力政治家として信任され、元徳3年(1331年)1月には一品親王に叙された。
元弘の乱(1331年 - 1333年)では、一度鎌倉幕府に捕縛され土佐国(高知県)に流罪となるも同地から脱出し、九州で旗頭となり鎮西探題を撃滅して、父の幕府打倒に貢献した。さらに、足利尊氏との戦い建武の乱(1335年 - 1337年)では上将軍(名義上の総大将)に抜擢された。父の降伏後も越前国(福井県)で尊氏との戦いを続けるが、金ヶ崎の戦いで高師泰・足利高経(斯波高経)に敗北し、新田義顕(義貞の子)と共に落命。
和歌の正統御子左家二条派の血を母方に引くだけあって歌に優れ、勅撰和歌集『続後拾遺和歌集』に1首・准勅撰和歌集『新葉和歌集』に44首が入集。家集は『一宮百首』(元徳3年(1331年))。明治時代、恒良親王と共に金崎宮(福井県敦賀市)の主祭神となった。