扶桑教
教派神道の一派 ウィキペディアから
教派神道の一派 ウィキペディアから
扶桑教(ふそうきょう)は、散在する富士講を結集し1873年(明治6年)に設立した「富士一山講社」に起源をもつ教派神道の一派である[1]。角行より始まる身禄派富士道の系統とされる[2]。
設立 | 1873年(明治6年) |
---|---|
設立者 | 宍野半 |
種類 | 宗教法人 |
本部 |
本部 (太祠):東京都世田谷区松原1-7-20 元祠:山梨県富士吉田市上吉田1 |
座標 |
本部 (太祠):北緯35度40分6.9秒 東経139度39分9.6秒 元祠:北緯35度28分22.9秒 東経138度47分38.5秒 |
管長 | 宍野史生 |
ウェブサイト | http://www.fusokyo.org/ |
駿河国富士郡(現・富士宮市)の浅間神社(現在の富士山本宮浅間大社)の官選初代宮司で、山梨県北口の浅間神社(現在の北口本宮冨士浅間神社)の社司も兼務した宍野半(ししのなかば)が、その宮司時代[3]である1873年(明治6年)に各地の富士講を結集する富士一山講社設立の運動を起こし[1]、9月9日、吉田口から入山する身禄派「一山講」を中心として結集し「富士一山講社」となる[3]。吉田口から入山する身禄派以外に、須走口、大宮口、村山口、須山口などの富士講諸派の包括を方針とした[4]。関東の有力な富士講や吉田・須走の御師が指導的立場に立った[4]。
1875年(明治8年)に「富士一山教会」と改称。1876年(明治9年)2月に太祠を建立し、「扶桑教会」と改称[4]。扶桑教会の基盤ができると宍野半は、宮司などを辞任し扶桑教に力を絞る[4]。
1882年(明治15年)、扶桑教が教派神道の一派として独立し[5]、経典『扶桑教』を刊行[6]。
1884年(明治17年)5月13日、宍野半が死亡すると、神宮教の神宮大麻・神宮暦の内紛があった際に宍野が尽力したため、神宮教の初代管長の田中頼庸が扶桑教管長事務取扱を兼務した[7]。1894年(明治27年)に、成長した宍野健丸が二世管長に就任する[5]。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.