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宍野半

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宍野 半(ししの なかば、1844年10月20日弘化元年9月9日) - 1884年明治17年)5月13日)は、富士講諸派を結集した教派神道の一派である扶桑教の初代管長で、扶桑教の設立に尽くした日本の宗教家、国学者

生涯

薩摩国隈之城(現鹿児島県薩摩川内市隈之城町)の薩摩藩郷士の家に生まれた。25歳で平田鐵胤国学を学ぶ[1]

教部省に勤める。後に大教院の大講義も務めた[1]駿河国富士郡(現・富士宮市)の浅間神社(現在の富士山本宮浅間大社)の官選初代宮司山梨県北口の浅間神社(現在の北口本宮冨士浅間神社)の社司を兼務[2]。富士講諸派を結集し扶桑教を設立[1]。1879年(明治12年)には神道事務局会計課長[3]

皇典講究所創立にも尽力し、「皇典講究所創設告文」を連名で著した[1]。墓所は青山霊園(1ロ3-1)。

脚注

参考文献

関連項目

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